森川雅美
「変化のとき」はある。既成の価値観が崩れ、今まで当たり前であったことが、まったく信じられなくなる。私がここにあるということすら、確かではなくなり、底なしの虚無に落ち込んだかのように、感触は遠のいていく。手を伸ばしても届かない、幻覚のようにすら日常が思えてくる。日常の感触を失えば、もうそこに私はいない。私がいなければ他者はなく、痛みも薄らいでいく。精神医学的にいえば、「解離性障害」とでもいうのだろうか。心的外傷への自己防衛として、自己同一性を失う、神経症の一種だ。個人ではなく、このような症状が、集団や共同体全体に及ぶことがある。社会構造が根こそぎ揺らぐ時だ。日本の近代史においては、いうまでもなく明治維新や敗戦だ。ただ、精神病理ではないので、人たちは何らかのバランスを取ろうとする。いまの情況を語る言葉を捜そうとするだろう。現在もまた、根本的な変化にさらされている。遺伝子や免疫は、「私」と「他」の境界を危うくし、情報の高度化は、「私」の根本を支える現実を宙吊りにする。また、戦時下のように直接ではないが、核の拡大や環境破壊は、私たちの突然の消滅を、遠くない実感として予想させる。まさに、明日の見えない、足場のない時間だ。そのような現在を、どのように表現すればいいのか、多くの書き手が模索を続けている。
新しい表現が求められているのだ。
表現が時代の中でのみ、語られるものでないことは、当然だ。また、現在が過去の時間積み重ねではないことも、前世紀の哲学は説いている。作品は書かれた時代の善悪の規範を取り払った上で、読まれなければならない。だが、矛盾することだが、反面、作品が時代の条件に、縛られているのも確かだ。実感としていえば、過去の作品を問い反省することなしには、新しい表現は生まれないように思える。
戦後詩歌について考えたい。現在の詩歌は異論もあるかもしれないが、やはり戦後詩歌と地続きなのは否めない。また、現在よりもはるかに実感として受け取られた、危機や虚無に対して言葉はどのように対峙し、回復していったのか考えることは、現在の確かな指針になるはずだ。さらに、ひとつの詩型ではなく、短歌・俳句・自由詩の三詩型に共通する、問題として考えることで、より明確になる部分があるだろう。ただ、戦後の詩歌を考えるにはより時代を遡らなければならない。
われわれを詩に駆り立てるものは、詩そのものの空虚な美的価値の世界にあるのではなく、詩でないもの、つまりわれわれが生きている現実の生活の中にあるのだ。(「現代詩とは何か 詩人の条件」)
大袈裟な言い方をすれば、具体的な人生があり、その日常の珠玉が俳句と思い定めていたということで、その人生いかにあるべきか、が主題でした。(「わが戦後俳句史」)
韻律を逆用して、区切りは必ず意味とイメージの切り目によることとし、ひとつの休止の前後がある時は目に見えぬ線で裏面から繋がれ、又一つの区切りは深い空間的な断絶を生むというような方法は多々可能である。(「ガリヴァーへの献辞――魂のレアリスムを」)
三つの詩型の戦後を代表する、鮎川信夫、金子兜太、塚本邦雄の発言を引用した。これらの発言には共通して、従来の詩型の克服、詩型の内在的な変革の意思がある。そして、自らの体験した言葉と戦争に対する思考があり、そのような思考こそが、言葉の回復には不可欠だという考えがある。とするなら、戦時下の詩歌とは何だったのか。日本の詩歌はどのような面で、戦争に敗北したのか。ここが問いの始まりである。
日本の近代詩歌において、戦争の時代とはいつから始まるのか。一般の歴史では中国への侵略戦争を、「十五年戦争」と名づけ、一九三一(昭和六)年の満州事変からを、一連の戦争とみることが多い。しかし、すでにプロレタリア文学への弾圧は始まっていたが、その時代まだおおむね、詩歌は自由な空気の中だった。六年後の戦争が泥沼化する、盧溝橋事件の時はどうか。まず目立つのは、改造社の「短歌研究」と「俳句研究」が、戦時特集を行ったことだ。ただ、作品そのものには、まだ戦時体制の強制力は弱い。自由詩ではその三七年に、立原道造『萱草に寄す』『風と暁の詩』、金子光晴『鮫』が刊行されている。短歌では、
事変おこりて客足たえ支那人床屋ニュウスの時をラジオかけ居り(日比野道男)
という、素直な感慨を述べた作品も書かれている。が、結社誌「心の花」などは戦時特集の歌を組み、
ますらをの命つみあげ日の御旗万里長城の上にを立てつ(佐々木信綱)
という歌が掲載され、いち早く時局に傾斜しかけていることは、否めない。俳句は戦争を描いた俳句)がブームになるが、
戦傷兵外套の腕を垂らしたり(加藤楸邨)
といような、あくまで戦争を題材としたものが主で、反戦の色すらあり、戦意高揚とはほど遠いものだった。少しずつ戦争へと向かいつつあるものの、総じてまだ詩歌への規制は弱かったのだ。
詩歌が全面的に戦争に巻き込まれていくのは、一九四〇(昭和十五)年、三国同盟が締結され、大政翼賛会が発足し、紀元二六〇〇年の祝祭気分に湧いていた、まさに戦時一色に国が染められていく年だ。象徴的なのは二月に起きた「京大俳句事件」だ。「京大俳句」には、
痴呆らの軍歌音符に我足拍つ(平畑静塔)
憲兵の前ですべってころんじゃった(渡辺白泉)
などの、風刺や批判を含んだ作品が多く掲載されていた。そこが口実にされた。平畑静塔はじめ「京大俳句」会員十五名が、治安維持法の違反の容疑で検挙された。これ以降、俳句は戦時下の体制に組み込まれた。
同じ年、短歌は自ら自由の首を絞める。「大日本歌人協会」の解散だ。その勧告書には、「実に歌人協会は新体制国家に有害無益な存在なるのみにあらず其の意義と価値とを毀損し累を歌人に及ぼすこと大なるものである今や旧体制を解散して国家の大局に応ずべきの時に当り上掲の問題を外にするにも狭義団体を解散するの要あり」
と記されている。俳句のような弾圧を恐れての行動だが、結果的には、自ら戦時体制に入っていくこととなった。
自由詩も、先にも記したように、プロレタリア詩はすでに、早い時期から激しい弾圧を受けて、三六年くらいまでにほぼ壊滅していた。が、短歌や俳句のような、分水嶺となる明確な事件はない。あえていえば、「神戸詩人事件」だろう。四〇年に、「神戸詩人」、のメンバー七人が、治安維持法の違反の容疑で検挙された事件だ。だが、「京大俳句事件」ほどの衝撃はない。「神戸詩人」は若手による少人数の一同人誌で、検挙の規模も「京大俳句事件」ほど大規模でなかった。。もちろんだからといって、問題がないわけではないし、当時の詩人は相当のショックを受けたようだ。平林敏彦も当時の様子を、「破滅に向う時代の先行きを憂慮する詩人たちを戦慄させたのは(『戦中戦後詩的時代の証言』)
、と書いている。とはいえ、やはりみせしめの感が強い。自由詩の状況はすでに当時、詩人自身がかなり強く自主規制していた。この頃までには、詩誌も統合されだいぶ少なくなっていた。また、言葉の運動そのものが、ゆるやかなカーブを描き、戦時下に向かっていた。そのことに関して瀬尾育生が適格に指摘している。「モダニストたち、プロレタリア詩人たちは近代日本の詩人たちのうちで、自らの詩の言葉の成り立ちについてもっとも意識的・方法的な人たちでした。だがそれにもかかわらず、彼らは誰一人として、作者そのものを支配する「超越的な作者」を自らがすでに呼び入れていることを、作者の意識を規定する「下部構造という超越者」を自らにすでに呼び入れていること――そのことによって、進行しつつある社会の超越化、ウルトラナショナリズム化に自ら呼応していることに、自覚的でなかった。こうして彼らは、自らの詩の言葉の意味を最終的に決定するメカニズムに直面することができず、その手前で繰り返し意識を空白にしてしまったのでした。」(『戦争詩論』)
。
早足で詩歌が戦時下に取り入れられていく過程をたどった。太平洋戦争最中の一九四二年、「日本文学報国会」が結成され、詩歌もその傘下に入る。そのような時代の詩歌の特色を次に考えたい。戦時中に広く知られた自由詩に、三好達治の「おんたまを故山に迎ふ」という詩がある。
かへらじといでましし日の
ちかひもせめもはたされて
なにをかあます
のこりなく身はなげうちて
おん骨はかへりたまひぬ
ふたつなき祖国のためと
ふたつなき命のみかは
妻も子もうからもすてて
いでまししかのつはものの
しるしばかりの おん骨はかへりたまひぬ
坪井秀人はこの詩に関して以下のように語っている。「言語による世界のミメーシスの骨格を見えなくさせるところに成立する伝統的な歌の感性だけが残されて、読者は〈読む〉ということそのものをここに読むのである。《おんたま》と抽象化された死体はただの物象ですらない。《おん骨》を迎える人びとの集合意識に溶解した《われ》という主体の曖昧さは、《いでましし》《かへりたまひぬ》等々の敬語表現と不可分となって〈国体の本義〉に同化している。(中略)そしてそれらは〈声〉というアンフォルメな領域ときびすを接していることがらなのである。」(『声の祝祭』)
まさにここにあるのは、空洞化された意識に代入された、超越者の声であり、人々を絶対者に結びつけるイリュージョンだった。そして、これらの言葉はただ文字としてでなく、声によってより劇的に演出され、ラジオによって毎日のように、国民の耳に直接届けられた。このような声が、天皇を頂点とした国家体制を国民に浸透させ、支配される陶酔を味あわせたともいえるだろう。
定型という短さのため、自由詩ほど劇的ではないにしても、同様のことは短歌にもいえる。日米開戦時に詠まれた歌を引用する。
皇(すめら)御民皇(すめら)御国に一億の命ささげむ時今し来る(佐々木信綱)
大きみの総(す)べたまふ(陸軍海軍を無畏(むゐ)軍(いくさ)とひたぶるおもふ(斉藤茂吉)
ここでも空になった定型の器に、絶対者の声が響いている。まさに定型の暗部が露呈したとも、いえる。しかし、必ずしもこのような歌ばかりではない。敗戦が近づいた一九四五年には以下のような歌が詠まれている。
何をなししぞ我をかへりみ今日の日のいのち思ひてスタンドを消す(佐々木信綱)
競はんとする心は失せて独り居り薄縁(うすべり)のうへを幾たびも掃く(斉藤茂吉)
同じ短歌でもここまで違うのかと思わせる。その短さ故に、日常の生活に戻らざるを得ない、定型の良質な部分が現れている。前者は強いられて詠んだもので、後者こそが偽らざる気持ちだ、という意見もあるだろう。しかし、それは後付けのいいわけとしかいえない。前者の二首も確かに類型的な思考ではあるが、その情熱は伝わってくる。当時の情況は、アメリカによる、在米資産の凍結や石油輸入の全面停止により打開策のない窮地に追い詰められていた。もちろん情報の統制による、いたずらに危機を煽る操作もあったろうが、国民の一人ひとりにも強い危機感があったのは事実だろう。開戦により、まさに暗雲が晴れるような、気持ちを抱かせたとしても不思議はない。そのような気持ちと熱意が、これらの歌には込められている。だからこそ人の気持ちを動かす。そこが問題なのだ。このようの並べると、短歌という定型の二面性が浮きあがってくる。
では戦時下の俳句はどうか。確かに時局への迎合はあった。しかし、その短さ故に、戦争への貢献は一番少なかったのではないか。
心赤し炭火ゆ灰を削(そ)ぎ落とし(中村草田男)
十二月八日の霜の屋根幾万(加藤楸邨)
開戦時の句である。全体が喩ともいえるような、短い定型は戦意高揚には不向きのように思える。あくまでも事実を事実として見つめる目は、安易に時代の声と同化することことはない。まさに「私」の目がこれらの句の根本にあり、観念的になることを避けている。 どうやら自由詩は分が悪い。さらに決定的なのは、定型の律を孕みそれを壊すことによって、戦意高揚のリズムそのものに加担したことだ。村野四郎「行軍」。まさに題名からそのものだ。
青年達
君らの顔が一斉に前方向くとき
君らはすでに
燃え上がる焔だ
君らの装具が一時に擦れて鳴りだすとき
すでに君らは
うごく焔だ
君らの歌が
森のやうに空へわき上がるとき
君らは
限りもない大きな焔だ
おお それにもました驚きは
君らのその火が
次の一本に燃えうつるとき!
悪い詩ではない。しかし、読めばすぐ感じるのは、リズムが何らかの精神の高揚をもたらす、ように構成されているのは明らかだ。ちなみに、強引だが、この詩を七五調のリズムで区切ってみる。もっとも定型ではないので、一字の字足らずや字余りは認めたい。「青年達/君らの顔が/一斉に/前方向くとき/君らはすでに/燃え上がる/焔だ」 見ていくと、「六七五八七五四」という、緩やかなリズムがしみこんでくる。その後には、「君らの装具が一時に擦れて鳴りだすとき」という、長い行が読むものを立ち止まらせる。リズムは「四八五四」。その後には短い行が続き、精神の高揚を促す。フィニッシュは、「おお」とリズムに収まらない言葉が休止のように置かれた後、「七五七七七」と畳み掛ける。「君らのその火が」の七音を、独立した一行にしているのも巧みだ。実際戦時下の詩の朗読のCDを、聞いたことがあるが、実にたくみに、定型とその破れを利用して、高揚させるように演出されている。
問題は定型そのものではない。定型がはらむ律なのだ。しかも、その律は毒にも薬にもなる諸刃の剣だ。そのことを誰よりも自覚していたのは、はじめに引用した発言でも分かるように、戦後の歌人、俳人、詩人だった。律への問いは、観念をもてあそぶのではなく、事物そのものに語らせるという、戦後詩歌の中心となる喩の問題に直結する。
戦後詩歌の格闘に論を進める前に、若き日の私的な恥ずかしい体験を話したい。このことが「詩歌梁山泊」を立ち上げる、私的な理由だからだ。
私は二十代の大半を左翼文学団体「新日本文学会」で過ごした。得るものは大きかったが、それ以上に誤ってしまったことも大きかった。もちろん、私は「新日本文学会」が悪いといっているわけではない。団体には大変優れた文学者も多くいた。ただ、このような政治的色彩の濃い文学団体は、無知な若者には大変大きな害があるということだ。実際、私は定型は自由詩より劣っているという、誤った考えを教え込まれた。ある詩人は、芭蕉の最高の連句を提示し賞賛した後、現代詩はこれを一人でやるのでより優れている、といった。無知な若者であった私は、まさにころりとその言に参ってしまった。ながく私は自由詩は定型に勝ると思い込んでいた。そのような自分への反省も含めて、「詩歌梁山泊」を立ち上げた。
このような定型を低く見る誤った風潮が、戦後すぐに時代を席巻した。桑原武夫の「第二芸術論」をはじめとした、一連の定型批判がそれだ。桑原の論は、結社の師弟関係の問題にメスをいれたなど、読むべき部分はある。しかし今の目から見ると、その根本は大きな誤解に基づいている、としかいいようがない。
フランスあたりでは民衆は芸術を味わいはするが、手軽につくれるものとは考えていない。その点、俳句のように誰にでも安易につくれるジャンルがあることは、芸術ということを、詩というものを、だめにしてしまうことだ。(「第二芸術――現代俳句について――」)
短歌に関してはより手厳しい。「短歌の運命」で語っている。
がんらい複雑な近代精神は三十一字には入りきらぬものであるからその矛盾がだんだんあらわになり、和歌としての美しさを失い、これなら一そ散文詩か散文にした方がよいのではないか、ということがわかり――このことは日本の社会の近代化の如何にもふかく関係するが――短歌は民衆から捨てられることになるだろう。
今読むと実に粗い内容だ。引用部分は、明治の「新体詩抄」や「小説神髄」から、それほど踏み出していない。「誰でも安易につくれる」や「複雑な近代精神は三十一字には入りきらぬもの」、などの考えは一面しか見ていない、無知から来る偏見とすら思えてしまう。が、このような論が、一世を風靡したことにこそ、いかに戦争によって、詩歌の言葉が傷ついていたかが現れている。このころ他にも、定型を否定する多くの評論が書かれたが、ほとんどが今の目で見ると雑なものだ。。しかし、それらにはなぜ日本の詩歌は、あんなに戦争にもろかったのかという、反省と真摯な問いが共通しているので、必ずしも否定はできない。その中でも小野十三郎の「奴隷の韻律」は、さすがに実作者の実感を感じさせ、問題の本質に迫っている。
短歌や俳句をめぐってなされた桑原や小田切の批評に私が飽き足らないのは、ロジックとしてはそこに透徹したものはあるけれども、いつの場合でもこの短歌や俳句の音数率に対する、古い生活と生命のリズムに対する、嫌悪の表明が絶対に希薄だということである。特に短歌について云えば、あの三十一文字音量感の底をながれている、濡れた湿っぽいでれでれとした詠嘆調、そういう閉塞された韻律に対する新しい世代の感性的抵抗がなぜもっと紙背に徹して感じられないかということだ。
誤解されやすい文章だが、ここで小野が語っているのは、短歌そのものの否定ではない。「音数率」「音量感」と書かれているように、ここで問題になっているのは、あくまで律の問題だ。あるいは、
現代詩はその抒情の科学に「批評」の錘を深く沈めることによって、短歌や俳句の詩性と自ら区別される現代の歌であることを忘れてはならない(同前)
とも書いている。小野はあくまで自由詩の書き手として、自由詩の問題として、日本語がはらむ短歌の律を問題にしている。他者に向けた批判ではなく、自己の内部へと深く降りていくことばだ。戦争によって傷ついた日本語を、どのように甦生させるのかという、真摯な問いかけがある。問いは桑原のように単純でなく、自己のうちで複雑に、愛憎が屈折している。批判は短歌そのものでなく、このような律に無神経であった(と小野が考える)、戦前の短歌や、その律を無批判に取り入れた自由詩に、向けられている。
このような小野の言葉を、
そのなかの歌俳に向けられた批判のうちで、しかし、小野十三郎だけは違うとおもっていました。(中略)しかも、その発言姿勢は絶えず自分の内部に向かっていて、自身の内部のデルタを日本の精神風土と重ねて見詰めつつ物言いしている様子でした。
(「わが戦後俳句史})
と、金子兜太は捉えている。明らかに共感の気持ちが込められている。実作者同士の言葉に対する、実感が共鳴している。「自身の内部のデルタを日本の精神風土と重ねて」
という部分は、単に小野に対することばではなく、金子自身の実感でもあるのは、明白だ。金子もまた日本語の律に潜む問題を見詰め、同じ疑問を共有していた。
戦後の短歌を切り開いた塚本邦雄も、小野と共鳴している。はじめに引用した発言の前の部分を、少し長くなるが引用する。
短歌における韻律の魔は単に五・七の音数だけではなく、上句、下句二句に区切ることによって決定的になる。極端な字余りや意識した初句及び五句の一音不足も、また七・五に代わって八・六調にしても、この区切りで曖昧なレリーフを生みつつ連綿と前句と伝承していく限り、オリーブ油の河にマカロニを流しているような韻律から脱出できない。歌人一般もそのメロディーに飽きつつある。僕は朗詠の対象になる短歌をつくりたくない。結果的に語割れ、句跨りの乱用になっても些かも構うこと無い。イメージを各句で区切って七五のリズムで流していると、そこにはいつまでたっても情緒だけの、リリシズムだけの滓がつきまとい造形的な空間へのひろがりを失いやすいのだ。
(「ガリヴァーへの献辞――魂のレアリスムを」
「奴隷の韻律」が直感や感性に根ざしていることと、小野自身が定型の実作者ではないため、嫌悪というやや感情的な部分が目立っていることは否めない。対して、塚本の文章は実作の現場から、短歌を構造的に分析し、ひとつの方法論を提示した、思考の文章だ。しかし、三枝昻之も『昭和短歌の精神史』で述べているように、その思想の根本は驚くほど近似している。「奴隷の韻律」の骨格となる、「奴隷のリリシズム」「詠嘆調そういう閉塞された韻律」「もっともいやな「音楽」」という、短歌への批判はすべて違うことばで盛り込まれている。だが、この文章のもっとも優れた部分は、共感をするとともに、返す刀で小野の批判もしていることだ。小野のいう「奴隷の韻律」は既存の、空虚な器、定型となった短歌のことで、短歌の定型の本質ではない。定型はもっと深く様ざまな可能性を持っている。言葉は思想や批評をくぐることで、充分現在の表現になる。このような決意が含まれている。
この批評と方法論を持って、言葉を立ち上げる思考は、「荒地」の主張するところにも底通する。「荒地」の宣言であり、鮎川が起草した「Xへの献辞」には書かれている。
僕等が詩を書いてゆくことのうちには二つの岐路がある。容易な道を歩いて低い世界に言葉を結ぶか。困難な道を辿って、言葉を高い倫理の世界に押しすすめていくか。これは背中合わせになっている一つの行為の表裏のように思われる。どちらにしても言葉と肉体の出会う場所である詩の世界に於て、生と形式は完全な統一へと導かれる。そして僕たちは常に困難な道の方を択ぶことを以って自らの矜持としたいと考えている。
しかし、これは誰に向けた文章なのだろうか。一つは明らかにまだ見ぬ読者ではあるが、それだけではないトーンがある。
僕は君に向かって話しているつもりであったが、いつか自分自身と話し込んでしまったらしい。
不思議な文章である。「自分自身」とは何か。分裂した夢のようだ。ここで「死者」ということばを挿入するとしっくり来る。「自分自身の内なる死者」との、まさに対話だろう。未知の読者と死者は渾然一体となり離せない。第二次世界大戦の死者は推定で約五千五百万人。まさに未曾有の惨劇だった。戦後詩歌を担った書き手は、もっとも多感な青少年期が、この戦争の時代だった。ちなみに、鮎川二十一歳、塚本は十九歳、金子は二十二歳で日米開戦を迎えている。いわば死は日常であり、自らも死ぬことを余儀なくされていた。北村太郎はいう。
彼らが空白だ、ブランクだ、という時代に僕らはまさにこの肉体を持って生きたのであり、そのあいだには、三十代、四十代の人の全く想像できぬ未知の個の倉庫が、徐々にそして確実に満たされて来たことを記憶するべきである。
(「空白はあったか」)
このような人間の心理を、想像することは難しい。いわば想像力の及ばない領域だ。だが、ものすごく過酷な体験や、死に直面した者が、平和な日常に違和を抱き、戻ることができないということはある。この違和がまさに肉体であり、それが方法に結びついたのが、戦後の詩歌であると考えるのは、間違っているだろうか。死んだ者の目が、日本語の律や意味を必然的に逸脱したと、考えることは、あまりにもロマンチシズムだろうか。だが、そのような形が見いだせないなら、「生と形式の統一」という理念は破綻してしまう。
たとえば霧やあらゆる階段の音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。
(「死んだ男」冒頭)
日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も(塚本邦雄)
夜の果汁喉で吸う日本列島若し(金子兜太)
もはやいうまでもない、戦後詩歌を代表する作品を並べてみた。このように並べてみると、一つ一つではわからない部分が見えてくる。面白いことはこれらのリズムが良く似ている。「死んだ男」の書き出しは七音だが、その後は音を微妙にずらしてる。それでも、不思議なことに自由詩が、一番五七調に近いのは興味深い。対して、塚本や金子の言葉は、どのように定型の律に入れようとしても入らない。あえて強引に律に当てはめるなら、「日本脱出/したし 皇帝/ペンギンも/皇帝ペンギン/飼育係も」となる。ここにはあの「奴隷の韻律」が入る余地はまったくない。金子の句も同様である。「夜の果汁/喉で吸う日本/列島若し」となる。この句も律を破壊するために定型は機能している。ここで一つの逆説がある。自由であるはずの自由詩が、もっとも短歌の律に近いのだ。定型がない最も原初的な形ゆえに、律に縛られるのか。それは今後の課題として考えたい。
もう一つの重要な共通点は、これらの作品には難渋な部分が無いことだ。確かに単純な作品ではない。しかし、どの作品もイメージは明確だ。つまり、あくまで声でなく事物として記されているのだ。まさに戦時中の声として語られた、詩歌への批判だ。
このような成果は、三詩型が共通する問題を、互いに分かちあいながら、作品にしたからだろう。いい換えるなら戦後のごくはじめの一時期、三詩型が未分化の時があった。もちろん、違う詩型なので書かれた瞬間に乖離する。しかし、書かれるまでの一瞬、短歌俳句自由詩という形ではない、さらに原初的な形があったのではないだろうか。ごく極端ないい方をさせてもらうなら、戦後詩歌は同じ器を使いながら、戦前とはまったく違う詩歌を創ったといっても良い。その根底には、形になる寸前の発せられたままの、言葉がある。もちろん、過去の作品の影響は強い。過去の作品から切れて、全くの無からの創造はありえない。しかし、戦前と戦後の詩歌は、見てきたように、律にしてもイメージの作り方にしても、まったく違う。古い器に新しい言葉が盛られた。何度もいうが、それを可能にしたのは、一つの詩型に囚われない発想だった。
とはいえ、異なる詩型である。作品として提示された時点で、急速に乖離する。さらに、あまりにも厳格な方法論と批評精神は、すばらしい成果を生む反面、言葉を窒息させもする。そのことが、戦後詩歌のそれぞれの詩型の孤立に繋がった。各詩型のより深い追求には、孤立は免れ得なかった。そして、孤立から多くの成果が生まれたのも確かだ。だが、時が経てば疲弊し、新しいものも古くなる。
変化のときだ。
日本も世界も大きな転換点にある。当然、既成の形ではこれからの表現は難しい。新しい形が求められている。戦後すぐのように、形以前に立ち返り、もう一度形を問う時だ。そのためには、それぞれの詩型の特徴や共通点、相違点を互いに考える必要がある。もしそれがより大きい乖離と、より深い孤立に繋がるかもしれないとしてもだ。
「詩歌梁山泊」はまさにそのような場として、ここに一歩を踏み出す。