私の好きな詩人 第86回 - 吉田一穂 – 天童大人

 初めて吉田一穂主宰の詩誌「反世界」に、触れたのは、神戸の渡辺一考宅二階の書庫で、今から41年ほど前だろうか。渡辺一考と言っても知る人ぞ知る人物で、神戸ブックスで、書物を制作し、後に「南柯書局」を設立し、限定本を制作していた名うての編集者で、二年前までは、赤坂でシングル・モルト専門のバーdesperaの主人でもあった。
この時、「反世界」を手にいれたいと思わなければ、詩人吉田一穂と、会見することは、生涯、無かった、と今ならはっきり分かる。
帰京後、早速、小山氏宅を訪ね、初版の『海の聖母』(金星堂刊)をはじめ、一穂詩集の初版本の数々や、書を見せていただいたり、稀覯本中の稀覯本『極の誘い』(一路書店刊)も頂いたりした。
 1972年3月末、小山さんに伴われて、三鷹台の吉田一穂宅に伺った。
「貴方と同じく、北の男で、気性が荒いので、気が合えば良いが、合わなければ争いになるから」と心配されての同行だったが、臥せっていた吉田さんが、「小樽生まれで、中学三年から単身東京に」と言うと起き上がって、微笑みながら「ほお」と言われた。それからは、話は弾みすぎるくらい弾んだ。心配していた小山一郎さんも安心したのか、時折、相槌を打ち、吉田さんと私との話を聞きながら、黙々と煙草を吸われていた。
今、話している相手が狷介孤高の詩人吉田一穂とは、到底、思えなかった。
休暇のたびに帰省し、青函連絡船に乗っては、口ずさんでいた詩。      

あゝ麗はしい距離
常に遠のいてゆく風景・・・・・・・・

悲しみの彼方、母への
捜り打つ夜半の最弱音。

     吉田一穂詩集『海の聖母』(金星堂 大正15年刊)による

あの名詩「母」だ。何処で、何時、覚えたのだろうか。
距離、にデスタンス、最弱音、にピアニシモ、とルビを当てている。函館港から、連絡船が遠のいて行くときに、知らず知らずのうちに、口ずさんでいる自分に気がつくのだった。

何をどう一穂と話したのか、分からない。
二年前に仮面社から刊行された『吉田一穂体系』全三巻(仮面社1970年刊)が届いた時、装幀の画家宇佐美圭司の作品を見て、「俺の作品は、こんなに軟ではない」と、三冊の表紙と函を破り、燃やしてしまい、本体だけを見て、五冊にはなったな、と言ったそうだ。
この『吉田一穂体系』全三巻には、重大な過失があり、お前が付いていながらと同席した加藤郁乎を叱咤し、さすがの郁乎もコトバが無かったと言う話も聞いていたが、今、目の前に居る一穂は上機嫌だった
何時間、一穂宅に居たのだろうか?御子息の八岑さんもチラリと姿を現わした。
この時の詩人吉田一穂との会見が、今の私に、大きな影響を与えているのだ。
その後、鷲巣繁男詩集出版記念会にも、小山氏と共に出席し、草野心平を始めとして、多くの詩人を見た。
ヨーロッパへの秘かな旅立ちの前に、もう一度、吉田一穂さんに逢いに行った。小山一郎さんは誰かを案内するので、遅れるとの事だった。
家には一穂さんを除いて、誰も居なかった。インド哲学者松山俊太郎氏から聞いておいてほしい、と頼まれたことを訊ねなければならなかった。それは「一穂さんは、何故、萩原朔太郎を嫌いなのですか」と。たった一言、答が帰って来たとき、小山さんが入ってきた。連れは詩人の渋沢孝輔。
その時のことを渋沢孝輔は、『吉田一穂詩集』(現代詩文庫1034 思潮社刊)の解説(151頁から152頁)に記している。
1973年3月1日のスペイン・サンタンデールの海は、紫色に染まり、何処かで、凶事が起きていることを伝えていた。後日、吉田一穂さんが1日に亡くなったことを知った。
今、思い出して小山一郎さんからの葉書を探し出して見たら、一穂さんは天童君から便りを貰って喜んでいました、と書かれている。私は、どうやらスペインから、吉田一穂さんに手紙を出したらしい。帰国後、小山さんから、吉田一穂さんの形見分けとして、アンモナイトが木の両サイドに彫られた手彫り印を頂き、今も手元に大切に残されてある。
詩人吉田一穂が私にとって最初の詩人であったことは本当に良かった。
吉田一穂の詩作品を読んで、詩を書こうと思った。
後年、銀座の画廊で、出会った「歴程」同人の三ツ村繁さんに、お会いしたとき、その話をしたら、翌日、墨蹟鮮やかな巻紙の雁書が届いた。
「私は、吉田一穂を知って、詩を止めようと思ったが、君は詩を書こうとしている、君は偉い。」

私の詩人の基準は、吉田一穂。

タグ: , , ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress