ある時間といくつかの調べ (あるいは速度)についてのちょっとした試み   栗生えり

【5月16日掲載】詩歌トライアスロン-1
第2回 詩歌トライアスロン 石川美南推薦作

ある時間といくつかの調べ
(あるいは速度)についてのちょっとした試み   栗生えり

天際含煙月地融
孤雲流去向虚空
時聞遠水閑花落
円象悠悠四海同

○●○○●●◎
○○○●●○◎
○○●●○○●
○●○○●●◎

ちへいはかすみ つきはとけ
さいごのくもも ながれさる
みなもにはなの おちるおと
そらはどこでも おなじかお

天の際霞を帯びて月地融く
孤雲虚空を目指し流れ去る
遠水に閑かに花の落ちる音
春の空数多の水に映り込む

天の際煙る霞に月融けて最後に残った雲も消え去る
時として遠水に花の落ちる音空はどこでも同じに振舞う

天の際、
煙たく霞む地平線が
月と地面の境界を
融かしている。
孤雲、
ひとつだけ残っていたが
それも流れて
どこへともなく消えていった。
耳を澄ます、
水面のどこかに花が落ちる。
円象、
空の振る舞いは
きっとどの国でも
どの水の上でも
だいたい同じようなものなのだろう。

○●○○●●◎   とんつーとんとん  つーつーとん
○○○●●○◎   とんとんとんつー  つーとんとん
○○●●○○●   とんとんつーつー  とんとんつー
○●○○●●◎   とんつーとんとん  つーつーとん

○●○○●●◎   そらの(果てが)かすんだ (月の)(融ける)「夜」
○○○●●○◎   ひとつだけ残る(雲) (もう)流れてここを「去る」
○○●●○○●   時折きこえる(水面に)(そっと)花が落ちる(おと)
○●○○●●◎   そらは(きっと)どこでだって (同じように)(そこに)「在る」

 異国の水辺で過ごした時間を漢詩に詠んだ。

作者註

 漢詩は音数=文字数であり、音韻・発音・強弱について厳格な規定がある。漢詩をつくるということは(少なくとも私のような日本人の書き手にとっては)厳格に決まった韻律に乗せて音=文字を選び構成していくという営みである。俳句や短歌は音数の規定こそあるが、音韻や強弱の調子については、漢詩と比べると圧倒的に書き手の自由に委ねられている。やや乱暴な言い方かもしれないが、日本においては、ある定められた音数とことばの響きによってつくられた調べ、それが定型詩である。対して自由詩は、音数やリズムの作り方に制限がなく、すべてが書き手に委ねられる。

 また、日本語では音を組み合わせ響かせることで初めて言葉になるのに対し、中国語は一音の響きと一つのことばが一対一で成り立つ。音=ことばを厳格な韻律によって構成した漢詩の(韻律による)味わいは、日本語に書き下したとき、消えてしまう。その意味では、漢詩を日本語に書き下した文や訳文もまた、自由な韻律で再構成された自由詩であるといえる。漢詩は紛れも無く定型詩だが、それを日本語で味わうとき、定型の定義は薄れ、どちらでもない(あるいはどちらでもある?)ものになる。

 定型詩は定められた音数にのせて、言葉を律し、調べをつくる。自由詩は音数の定めがなく、自らのルールで全体を律し、調べをつくる。俳句、短歌、自由詩、漢詩の書き下し、日本語をつかって調べをつくるという意味では、すべて同じ営みである。決まりごとが(元の詩形に対して敬意を払いつつ)取り外されたり適用されたりするとき、調べが変わる。異なる調べ、それでも残る味わいと、新しく生まれる味わい、響き。味わいの越境。定型詩と自由詩、異なる詩形の融合のヒントがここにあるのではないだろうかと考えた。

 一首の漢詩を始点とし、[日本の言葉で味わうこと][日本語で声を出して読むこと]を念頭にしたいくつかの試みを、まとめたのが本稿である。さまざまな響き、さまざまな速度で、同じ時間を解凍・圧縮する試みだ。

 なお、後半の「とんつーとんとん」の一連の詩における強弱の読み方は、漢詩韻律の本来の意味とは異なる。日本語に無理やりあてはめた場合どうなるかを考えた、創作である(本来この記号は強弱ではなく発声の違いを意味している)

 最後に、今回詠んだ漢詩の書き下し文を載せる。日本語に変換したとき、漢詩は自由詩となる。

天際含煙月地融 天際 煙を含み月地融け
孤雲流去向虚空 孤雲 流れ去り虚空へ向かう
時聞遠水閑花落 時に聞く 遠水に閑かに花の落ちるを
円象悠悠四海同 円象 悠々として四海同じ

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