



カラスの惑星
究極Q太郎
一.
一日、目もくれなかった硝子の空が
ようやく見えてくるのは
枯れた葉っぱのように
色づいたから。
だが、早送りの動画のように急いで流れていき
あっという間に暗くなる。
運が良ければそのとき
爪のさきのようにかすかにひかる三日月が
目にとまることがある。
空に刻まれた爪痕が
ついに見落としてしまった一日をあがなうかのように
さえざえと
見えてくることがある。
とりとめなく漠然と乱れたものが
次第に落ち着くように
一日がようやく象られる頃には
とっぷり日が暮れている。
そうして夜がふけた頃には
この道が私に残されたただ一つの道となるのだ
どう歩いても
もう迷うことはない。
二.
午後七時に仕事が終わるとわが家をめがけて歩き出した
「散歩三昧」をしていた日々のこと。
私がする一人暮らしする障害者の家を訪ねる介護の仕事は
毎日ゆく先が異なっており
東久留米、ひばりヶ丘、上板橋、大泉学園に仕事場がある。
その中で一番長い道のりは、大泉学園から秋津までの道で西武池袋線の五駅分の距離。
家から一番遠いのは上板橋だったが、
だいたい四時間かけて帰宅することに決めていたので
すべての行程を歩いたら時間がかかり過ぎる。
そこ東武東上線沿線から
西武池袋線の駅…江古田、練馬、中村橋等へ歩いて
あとは電車を使っていた。
歩く距離がいちばん長い大泉学園からでも
道に慣れれば近道もおぼえるし、本来四時間もかかりはしないのだが、
いつも異なる道をでたらめに歩いて、時々迷いもしながら四時間をかける。
そうやって私が歩いた道は概ね住宅地の中ではあったものの
大通りをなるべく選ばず、ただでさえ閑散とした道を辿っていたため夜もふけていけば、すれ違うひとがほとんどなかった。
それどころか、住宅街の中であるほど
しんと静まり返って声もせず、灯りがあるのにひと気が絶えて
家族団欒があるはずのまだ早い時刻にそうであるときなど
忽然と人間が消えたもぬけの殻の町を歩くかのような
ムジナにでも化かされたといったあやしい心地がしてくるのだった。
やはり散歩三昧をしていたある日
夕刻の大宮氷川神社の境内裏手にある駐車場に立っていると
幾重も波のような、カラスの夥しい数の群れが、
空を覆うように渡って林のねぐらに帰ってくる光景に出会った。
そうしてそこで「鳴く」というよりペチャクチャ「お喋り」しているのだが、
それはそれは愉しげに
林中からけたたましく鳴り響いており
日頃歩いている沈鬱な住宅街ではついぞ聞かない
だが、むかし私が子供のころ、町の中で聞いた覚えがある
ほうぼうの家から聞こえてくる夕餉の団欒のような
生活の声といったものを思い出させた。
それはそれは懐かしい
在りし日のひとびとの光景…
そうしてそれはつまり
いつしか一人とり残されていたニンゲンという身の上に
私がめぐりあうことでもあるようだった。
何気なく辿っていった先に
砂に埋もれた自由の女神に出会う
あのシーンが一瞬で示唆した愕然とするような出来事…