私の好きな詩人 第30回 ― 福間健二 ― 高村而葉

詩人に「出会う」ということは今の時代、稀なことである。まず、発見することが難しい。現代詩人となるとかなりレアな存在だ。見つけたらぜひ捕獲してもらいたいと思う。ただし捕まえて閉じ込めておくだけでは「出会う」ことができない。対象は詩人に限らず、恋人でも息子でもよいが、できない、とわたしは考える。

発見から捕獲するまでが「出会う」ことだとして、そこへ至る通路が閉ざされている、とでも言いたい困難さなのだけれど、訪ねてみれば案外開けっぱなしの物騒なものである。だからわたしは泥棒のようにこっそりと、何篇かの詩を盗みだすことはよくあるし、気に入った部分だけを持ち出すことも多い。これは読み間違える場合が、というよりは大体読み間違えることになる。とりわけ目耳によいフレーズは危険だ。読み間違えることが半ば当然であるとしても、あまりにも見当違いの方向へ腕を突き出していることがある。恥ずかしいやつだ。

わたしがそのようにして初めて盗みだしたのは「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」だったと思う。きっと多くの人が同じように教科書から持ち出したのではないだろうか。なぜだろう。子供心をくすぐる開放的な響きがあるからなのかどうか。なんの手助けもなく「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」だけを転がすと、なんだか楽しい気分になる。しかし当然ながら「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」は取っ手のようなものであって本体ではない。取っ手だけではなにもできないではないか! そう思うが、どうしてなかなかいいものだったりするから困る。置物として眺めてみたり、どこかに固定してコートを掛けてみたりできるのだ。ときどきは手にして壁に投げてみたりする。ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん。

 

だがこれでは詩人と「出会う」ことにはならないだろう。せいぜい友達の友達の友達の従兄弟、ぐらいの関係だ。全く知らない赤の他人だと断言できる。しかし取っ手のようなものをきっかけとして、誰もが詩人と「出会う」可能性はあると思いたい。大きなお世話だ! どこまで深く寄り添っても他人であることに変わりはないのだからどうでもいいではないか、好きにさせてくれ、と言われるかもしれない。取っ手だけでもなんとか生きていけるのだ。けれども、砂漠に取っ手、などというシュールなことが人生にはつきものであるから、乾期のたびに酒を砂漠に流したり、足の長いゾウに乗って砂嵐をやり過ごすだけでは疲弊する。無理をするのはとても体によくない。経験から言えばそうだ。なによりもわたし自身にそう言ってやりたい。大きなお世話だ。無限ループ。

それでは「出会う」とはなんであるのか。
出会いには別れがつきまとうものであり、生きているからにはそれを避けることはできない。であるならば、発見から捕獲の先にあるものは所有ではない。これはすべての出会いと対になった別れの作用であり、必然としてそうあるのだと思う。所有できると奢る心を捨て去りたいと願うわたしだ。すべては流れゆく、と同時に育つ根っこがある。持ち得ないものを持って流し渡す。ここまでを「出会う」と呼びたい。できるか。できないか。わからない。

最後に、わたしの好きな詩人の取っ手を流す。

書いてしまえばいいのに待ってしまう。
なにかもっといい案が浮かぶのを
ぎりぎりまで
きのうも、待った。
書くことがなくても書く。
それしか手はないというのに
夜、靴をなくしたまま歩いていた。
 
「だめ、だめ、そこまではだめ」と言いながら
彼女は許している。
かわいい人だ。
 
血のにじむ足をひきずり
霧のなかをよこぎって
めざめる朝の体のなかに帰ってきた。
ここからまた
休まずに歩いてゆく。
ここからまた
叱られどおしの生活とはげしい雨。
来ないものを待つ
その心を、ベンチにおきざりにして
 
逃げるように歩いてゆき
だれにも待たれていない。
この落胆。
服のサイズも合わなくなって泣く場面。
ここに釘を使う。
思い出に酔わない釘を使う。
 
こわれたように
水を吐きつづける
青い家
そこで名前を呼ばれるために。

(「青い家」全篇)

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