私の好きな詩人 第76回 – 榎本櫻湖 – 望月遊馬

 詩を書くようになってから一度でも読み手に供する詩を書いたことがあったろうか。「供する」ではなく「饗する」でもいい。そうして読み手に対して供することで自分に跳ね返ってくる反応を一度でも想像したろうか。そのときに帰ってくる反応がいかなるものであれ、私たちはそのことに応じる権利を持つ。その権利を利用して読み手に対して手段を選ばない書き方もできる。たとえば榎本櫻湖の詩はそうして書かれたもののように思える。

 手段を選ばない書き方。それは換言すればどこまでも自由であることのできる書き方。さまざまな観念が入り組んでリズムを生じさせて、もしくはリズムを瓦解させて……そうして繰り出された文章の虚心坦懐なさまは読むものを光へと導くように思われる。

《熱りたつ雄々しい男根の謝肉祭がそこここの街で催されて、催している》  
 
……スカラベ、炸裂する光明の発現に、スカラベ、弛まぬ功績の礎に横たわる冷たい美貌の欠片、スカラベ、天体の漠とした悠久の交響は、スカラベ、当惑の優越に齎される嫋々と崩れていく風紋の、スカラベ、憂愁の虚飾に狼狽える濁世の跛行、スカラベ、陥没した淫猥な嘆きの結晶化に諾い、スカラベ  

「陰茎するアイデンティファイ」より 

 「スカラベ」という言葉のリフレイン、そして、リズム。榎本櫻湖の詩にはリズムの情動だけでなく、背景の「私」の希薄な洪水のような文字が実験のようにさまざまな工夫・意匠をこらして繰り出される。

 だが、手段を選ばない書き方をすれば、読み手が無反応になることもある。けれどもそれが、作品そのものの質と必ずしも結びつくとは限らない。無差別な文体はそのまま音楽のようであり、榎本がとりわけよく行う音楽と詩との往還を思わせる。

 音楽と詩だけではない。ときにそれがBLであったりバレエであったりもする。それが面白い。

 「詩」はそれそのものが、其処にあるばかりで、どこにも出自を持たないもののように佇んでいる。それは榎本の狙いである。出自を隠蔽して、その極限で文字そのものの情動のみによってかえって出自そのものを曝け出すような。ある種、逆説的な方法論に依って立つときに榎本の詩はわずかに輝きを帯びるように思われる。

 そしてその輝きにこそ私たちは眼を奪われつづけるのかもしれない。

タグ: ,

      

Leave a Reply



© 2009 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト. All Rights Reserved.

This blog is powered by Wordpress