短歌時評 第5回 清水亞彦

新旧の枠     清水亞彦

 前回、総合誌に載った「手書き作品」を取り上げた(吉岡太朗「れきしてきいきづかい」)。その徹底的に「拙」を構えた中身と、表記の摺り合わせを面白く感じ、場への効果を支持したのだが、今回はそれを読みつつ気になっていた、一点について感想を述べたい。

けふわらわいちにちわらわとなりわらわそなたにせくすとやらがしたいぞ

 一首まるごとの平仮名表記。「わらわ」挿入のリフレインのリズム。さらには「そなたに」の「に」の巧さ。それらによって醸し出される興趣はやはり中々と思う。同人誌「町」3、4号あたりの、どちらかと言えば直截的なパロディ・露悪の方向性を、いま一歩やわらかな方へ展いてやった意欲作とも感じる。ただ、氏はこの一連で「新かな」を採用しているのだから、「けふ」は本来ならば「きょう」だろうし、「旧かな」を採るのであれば「わらわ」は「わらは」となる筈だ。もちろん、この作品において、頭二文字を「きょう」や「今日」と置いた場合に、一首の魅力は目減りするし、「わらは」は全く話にならない。そうした計算を経た上での、新旧混用ということは解る。また、先行する歌の中に「もお」「ねー」といった口頭語を鏤めてもいるから、無理に迎えて読むとするなら、この「けふ」を字音その儘のオノマトペとして、受け取れないこともない。いずれにしても、周到な用意の一連であるには違いないが、ならば、その周到さの狙いは何か。そもそも一連のタイトル自体が「れきしてきかなづかい」のパロディとも見え、目立つ「手書き」の陰にかくれて、侵したかった本丸が、実は「新旧の枠」だった、そんな気配も濃厚なのだ。

 同じような行きかたは、以前、詩歌梁山泊のシンポジウムで紹介された、御中虫氏の俳句作品にも有った。

暗ヒ暗ヒ水羊羹テロリテロリ  

 これも普通なら「暗イ」となるはず。けれどもこれも句末に置かれた「テロリテロリ」と響きあって、口頭語もしくは心中の声と受け取れないこともなく、やはりエクスキューズがある。この百句詠も面白く読めるが、「新かな」と「旧かな」が隣り合い、時に一句にも混在する、独自の感性のルールによって表記が束ねられている。

じきに死ぬくらげをどりながら上陸
結果より過程と滝に言へるのか
あなたの手が昆布のように昆布のように

 こういった、効果の為に、それなりのエクスキューズを設けつつ、「新旧の枠」を外していこうとする傾向が、もしかすると極めて「同時代的な欲求」になってきたのだろうか。

 かつて、短歌においては、いわゆる「文語」と「口語」の混用が、ずいぶん槍玉に挙げられた気がする。が、今では、殆どスルーである。むしろ修辞の一要素として、当然のように受け入れられ、扱いの巧さが看板の歌人も少なくないように思う。もちろん、それが当たり前になるには、必然を感じさせるだけの作品の質と蓄積があって、徐々に浸透したのだろう。そもそも歌人の使う「文語」は、本来の文語とは異なって、作られた「近代文語」なのだ、という認識も、融通無碍の行きかたを、底のところで支えている。

 次は、そろそろ「表記」なのだろうか。「旧かな」にしたところで、「文語」同様、明治制定の「歴史的仮名遣い」を基本的には根拠としている。さらには、学術研究如何によって、折々のマイナーチェンジも施される「旧かな」だ。ならば、詩歌は効果のみを旨とし、新旧かなの枠組についても、外しても構わない… のだろうか?

「アジサイ」の木札の立ちてあぢさゐのそこに素枯すがるる遠き日の駅
小池 光『草の庭』
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった
加藤治郎『ハレアカラ』
逡巡しつひに拾ひぬホームより落ちかけてゐるヲロナミンの壜
日置俊次『愛の挨拶』

 例えば、こうした歌における仮名づかいの様相は、吉岡・御中虫作品にくらべて、ずいぶん穏やかなように見える。作者の胸中に在る「あぢさゐ」と実際のアジサイの隔たりを示すために呼び込まれた「新かな」。二首目、三首目に混在はないが、戦争と鶏をアレゴライズするアイテムとして「旧かな」にのみ許されている「ゑ」の形状を用いた(新かな作者の)加藤氏も、商品名としては「オロナミン」であるべき処に過去一時代の風趣をくわえるべく「ヲ」の字を据えた日置氏も、ルールを跨いだ時の意識に「新旧の枠」の変更自体を求める志向はなかっただろう。

 人を頷かせるだけの作品を書く定型作家は、ルールを踏み越えていく際に、それに見合った効果と新味を、作品の中へ封じ込める。それは「文語」「口語」の枠にしても、「旧かな」「新かな」の枠にしても、或いは変わりがないのかも知れない。けれども、それが薄められたかたちで一般化していく頃には、安くないツケも回ってくる。平板化、均質化、なんでもありの、なんにもなし。文語口語混在の柔らかな織物は、いつの間にか定型に馴染み、反面、定型と拮抗するチカラを失いかけているのではないか。いまだ綻びてはいない「新旧の枠」を踏み越えることが常態となれば、それと同様のことが、十年二十年の先には、やはり繰り返されるという気もしてくる。

風呂釜をめぐりてあまるくれなゐの炎に照られ故園にぞゐる
ふとたちし魚鱗のにほひ撒き水は野の川めきて車内の床を
磯ばたのひとすぢ町の鯵が沢県道たかく残るさびしさ
もどりくるボールに工夫加へつつ塀にむかひてゐたる少年
片山貞美『つりかはの歌』
パジャマの腕のべて書き合うはげしき文字市街戦略図に書き重ねゆく
いさごより帽を拾いてはや思う行きて逢うべき今夜こよいの約を
蛙の血シュルツェをとおし浸みながら問いかえしメモす毒投与量
夜半やはん旅立つ前 旅嚢から捨てて居り一管いっかんの笛・塩・エロイスム
岡井 隆『斉唱』

 同時代の作物を読み継いでいく合間合間に、こうした古い歌集を開くと、「旧かな」が「旧かな」らしく、「新かな」が「新かな」らしかった頃の、風貌を嬉しく感じたりする。それはノスタルジーかも知れないが、「意匠としての」それではない。新旧の枠を、周到に踏み越えてみせた作品については、価値を認めたく思い、同時にそこから派生しそうな動向には、いくぶんかの悩ましさも感じている。才ある若手の熟慮の一手は、往々にして、意匠単体のフォロワーを生みだすからだ。

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