短歌時評 第8回 清水亞彦

塚本邦雄と「古典」

 すこし過ぎてしまったけれど、6月9日は神變忌、塚本邦雄の命日である。途方もない業績から、なにをどう受け止めていくかは、各人各様のアプローチ次第。古典がけっして古びないように、塚本の作品もけっして古びることはない。

 今年2月に刊行された、島内景二『塚本邦雄』(笠間書院・コレクション日本歌人選)は、コンパクトな入門篇としての機能も果たしながら、一方で、熱っぽいメッセージを込めた、アジテーションの書でもある。項目に立てられている短歌は五十首。まずは、その選歌と配列が異例である。通例に従うなら、いわゆる「序数歌集」から代表歌を引いて、ほぼ編年順に解説していくのが穏当だろうが、島内氏は、その行きかたを今回は放棄し、塚本作品の魅力と意義とを語る50の断章を積み重ねていく際に、もっとも効果的な配列を採る。冒頭からの小題を並べてみると、「漢字は、文化の女神が着る衣装」「漢字の断片がつながると」「旧仮名は、文化の女神が話す言葉である」。目に見えやすい「表記」の問題から、対社会・対国家への批評性、時間芸術から空間芸術への転換、数字へのこだわり、と話題を繋いでいった先で、おそらくは同書に籠められたもう一つモチーフとも思える小題が飛び込んでくる。

日本人なら『源氏物語』くらい読め
『伊勢物語』も忘れるな

 もちろん、これらはあくまで塚本の作歌姿勢を説明する惹句として掲げられているのだが、他ならない島内氏自身の本音でもあるだろう。塚本邦雄の作品世界に少しでも深く触れて欲しい、と同時に、古典そのものとも格闘して欲しい。120頁に満たないコンパクトな入門書で、氏は塚本邦雄と古典とを共々に、強力にプッシュしているのである。その根底には、現代の短歌、同時代の歌人(の大部分)に欠けているものが、古典とじっくり向き合う時間である、という正当な認識がある。刹那の実感・体感ばかりが称揚され、旧制高校的な教養は大正生まれの歌人で終ったのだ、という半ば開き直りのような物言いを当然とする状況からは、歌の世界に太い背骨が甦ることは難しいだろう。

 たしかに学者・研究者ではない現代の歌詠みが、塚本ほどの読書量を熟すことは、並大抵のことではない。『国歌大観』、『私家集大成』、『日本古典文学体系』の大部分。同書で紹介されているこのリストを通読するだけでも、十年仕事になるのではないか。しかも、歌人が読む、という行為は単に「通読」することではなく、古典に対する価値判断を自分なりに下し、そこから現代に通用しうる詞藻を汲み上げていくことだ。だとするなら、結局は一生涯の終わりまで、オープンエンドに続いていく、作歌という営為の総体を、古典との往還を軸に組み立て直すことにもなる。

 TVのチャネルは肥大、ネットには情報が溢れ、悪化する地球環境や、爛熟迷走期にある市場経済。ほんらい個人が考えうる範囲を超えて考えることを迫ってくる話題に、現代人は包囲されている。また、同時代の歌集にも、他の表現ジャンルにも、それなりに注目すべき作品がある。そのいちいちに迅速な反応を心掛けていくならば、古典はますます遠退くばかりだ。

 かつて、国文学の学究であった菱川善夫が、「前衛短歌」の伴走者たらんとした時代には、氏自身の古典知識を、敢えて「封印」する形での評論活動が、有効に機能した。なぜなら当時「反前衛」と目される歌人のうち、倒すべき対象として、戦い甲斐のある者は皆、揃って古典への太いパイプを礎として作歌を組み立てていたからである。だからそれらのパイプを巡る、抒情の微温性を撃ち、日本の伝統文化とは異なった「知」と「同時代性」を強調してやることで、「前衛短歌」の批評意識を、無二の価値として称揚できた。

 そこから下って半世紀、前衛と反前衛とが不分明になり、あらゆる世代が口語使用の魅惑にさらされ、現在あるのは、ネット系と結社系の対立ですらなく、よくよく観察してみれば、「古典切り捨て派」「古典つまみぐい派」「古典と対峙往還する派」、三派の泣き別ればかりが静かに進行中という気がする。ことの良否ではなく、時間を「現在」と「現在以外」にどう振り分けるかという選択の方が、エコールごとの差異よりも大きな乖離を生んでいる。そして、表面の波立ちがどのように見えようと、歌の世界の底が、未だに抜けていないのは、最後の一派が少なからず存在しているからだろう。

 そんな現況を踏まえての島内氏の一冊である。入門書的な書冊の中で、古典再生者としての「塚本邦雄」を強調する企図には、これから短歌を詠みはじめるかも知れない新人への、無理を承知の、極めてハードルの高い、エールが響いているのだと思う。

 …『源氏物語』を読んだことのない歌人は、取るに足らない存在である。ならば、現代歌人は、どの程度、自分の国の古典を血肉化できているのか。近代短歌の主流は、『万葉集』を聖典と崇めるアララギ派であるが、『万葉集』しか読まない、いや『万葉集』しか読めない歌人ならば、おそらく『万葉集』すら読めていないのではないか。

(同書より)

千三百年以上の歴史を持つ和歌と短歌の正統は、どこにあるか。『万葉集』や『新古今和歌集』などの特定の作風への回帰は、文学精神の退歩である。また、現代短歌の自己満足は、詩歌の進歩を不可能にする。
 古典と現代の相互が歩み寄って初めて、結び目としての「詩歌の正統」が見出される。それは、どこにもない、バーチャルの仮想空間である。

(短歌研究6月号「アンソロジスト・塚本邦雄の眼」より)

 もちろん、古典を切り離した上での塚本作品の享受もある。実際そうした摂取によって、

ニューウェーブの作品群は一時代の表現を創った。また、島内氏自身が「解説」に記すように、塚本の古典(=現代文学への再生)には「誤読すれすれ」の「危険な橋」を渡るような部分もある。そしてその「危うさ」を危うさとして認識する為には、塚本以外のラインからの「古典」についても相当程度知っておかなければならない… かくして、恐ろしいほどの膨大な領域が、目の前に開けてくる。それが楽しいと思えるかどうか、そこにワクワクできるかどうかが、おそらくは、この先の短歌の豊穣を左右していくのだろう。

夏もよしつねならぬ身と人はいへたかねに顕ちていかに花月(くわげつ)は
きりふぢいづれむらさきふかければきみに逢ふ日の狩衣かりぎぬは白
昔、男ありけり風の中の蓼ひとよりもかなしみと契りつ
右大臣は常に悲しく「眼中の血」の菅家くわんけ「ちしほのまふり」實朝
皐月待つことは水無月待ちかぬる皐月まちゐし若者の信念

 同書項目五十首から引いた。塚本邦雄と古典への「同時入門」という企図がなかったとしたなら、或いは採られなかった作品かも知れない。「皐月待つ~」は四十九番目の引用で、塚本邦雄の辞世の歌だ。島内氏は「ことは」を「ごとは」と解した上で、難物と思える一首を平易に説き明してくれる。

 風薫る五月の到来を、私は待ち望んでいた。だが、それに続く雨の多い六月は、五月を待望していたように待つことは致しかねる。ああ、それにしても、過ぎ去った五月を待ち望んでいたのは、私だけではなく、人生と芸術に野心を燃やしている若者たちでもあっただろう。彼らの信念は、はたして実現しただろうか。次の五月に最も遠い六月に、私は世を去ってゆく。…

 「致しかねる」のニュアンスに、塚本邦雄の面影を写し、一冊のモチーフもまた、ここに尽くされている様な文章であるが、野暮を承知で、次の古歌も、そっと添わせて読んでみたい。

神まつる卯月になれば卯花の憂き言の葉の数やまさらむ
五月待小田のますらをいとまなみせきいるる水に蛙なくなり
郭公かならず待つとなけれども夜な夜な目をもさましつるかな
時鳥聞とはなしにたけくまの待にぞ夏の日数へぬべき

(斎藤茂吉校訂『金槐和歌集』巻の上・夏部より)

 古典に切り込み、古典を現代文学のほうへと引き寄せた塚本邦雄の力技の底には、一途で、清冽な古典への憧憬があったのだと感じられる。


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