戦後俳句を読む ‐ 執筆者紹介 ‐ 堀葦男の句 / 堺谷真人

堀葦男の句

平成5年(1993)4月の朝日新聞は、俳人・堀葦男の訃を簡潔に報じている。

堀 葦男氏(ほり・あしお=俳人、元日本綿花協会専務理事、本名堀務=つとむ)21日午前3時45分、心不全のため、大阪府茨木市の病院で死去、76歳。葬儀・告別式は22日午後2時から吹田市桃山台5の9の千里会館で。喪主は妻冨美子(ふみこ)さん。自宅は箕面市(中略)

東京都出身。大阪商船などに勤めながら俳句を始め、50-60年代の関西前衛俳句運動のリーダーで、62年、現代俳句協会賞。金子兜太氏主宰「海程」の同人会長。

この年、桜は花期が長かった。葬儀当日の大阪は雨。繽紛たる落花を踏みしめて人々は斎場へと向かった。年来の盟友・金子兜太は、次の一句を以て弔辞を締めくくった。

空(くう)に舞う無数の落花空に舞う

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筆者は昭和62年(1987)6月、葦男が講師を務める「一粒(いちりゅう)」に入会した。以来、逝去までの約6年間、句会や吟行でその謦咳に接することとなる。

当時の「一粒」は同人誌以前の職域句会。作風は有季定型を主とし、無季作品は稀であった。また、講師以下、俳酒一如の酒徒揃いでもあり、句座は常に歓笑と微醺とに包まれていた。筆者の知る葦男は快活で社交的な紳士、すこぶる大人(たいじん)の風があった。「前衛俳句の論客」という経歴から、漠然と圭角ある狷介な人物を思い描いていた筆者の予想ははずれたのである。

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過去の記憶は、往々にして美化される。「ALWAYS 三丁目の夕日」が描く昭和30年代が美しいのは、そのような美化(selective memory)の所産だからである。葦男の筆者におけるや、またその危惧なしとしない。それを乗り越え、葦男の人と作品に肉薄するには、結局のところ個々の俳句を実証的に読み直すほかない。戦後俳人たちを図式的・類型的な系譜学から解放し、その豊かな詩的滋養分を再び我々実作者の血肉とすること。これから始まる「戦後俳句研究」プロジェクトに対し、筆者はこのような夢を抱いている。

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