ウスバカゲロウの詩――長い前書きを受けた再び長い前書きの俳句 筑紫磐井

  • 投稿日:2013年02月08日
  • カテゴリー:俳句

ウスバカゲロウの詩――長い前書きを受けた再び長い前書きの俳句 筑紫磐井

人がいなくなれば、言葉もなくなり、詩歌も滅ぶほかはない。人口の激減している日本の詩歌も200~300年でほろぶだろうと私は言った(「かげろうの詩―――やや長い前書きのついた俳句」詩客23年4月29日号)。しかし、それは我々が「日本」と考えている概念次第である。
19世紀初頭にナポレオンがドイツに侵略した時、フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を講じた。現代日本と同じような危機がフィヒテの前にはあったからである。
そしてフィヒテは民族精神を鼓舞しただけでなく、民族・国民の定義を改めた。

「住国の変化は敢えて重要なものではない。自然界の影響の相違のごときもさして大きなものではなかった。従来の住民と混和するに至った事情も、格別重きを置くほどのことではない。いずれのゲルマン民族も今日他の民族に比し民族の純潔を誇ることは決して容易ではないであろう。」
「上に述べたるよりもはるかに重要にしてかつ根本的対照をなしているものは、国語の変化であると余は信ずる。本来の国語を引続き話している国民がいかなる民族の出であるかと言うことを問題とするのではなく、その国語が間断なくその国民によって常用されていると言うことを問題とするのである。けだし、言語が人間に作らるるよりも人間が言語に作らるることがはるかに多いのである。」

日本人とは、日本語を話す人々の集団ではないか。怪しげな遺伝子の継承ではなくて、誰が見ても分かる日本語と言うものを語る人々が日本を、日本文化を承継する。
国際化とは「英語」をしゃべれるようにすることだという噴飯ものの考え方がある(なぜフランス語や中国語をしゃべることが国際化にならないのか不思議でならないが)。
まあそれはいい、しかし、日本に来ようとする英米人、いやフランス人やドイツ人や中国人が日本語をしゃべれるようにし、日本の文化を語れるようにすることこそ現在の「日本」の急務ではないか。所謂日本人と言われる遺伝子を持った民族の出産率を上げることはいまや絶望的であろう、しかし日本語を話せる人々を育成するのはもう少し容易であるはずだ。
そして、そうした人々が日本の詩歌を支えてゆくようになるだろう。

陰惨な火が燃えてゐる我が思想

紫綬・黄綬さまざまな菊愛で給ふ

不純異性交遊といふかんせいご

執筆者紹介

筑紫磐井(つくし ばんせい)

1950年、東京生まれ。「豈」発行人。句集に『筑紫磐井集』、評論集に『定型詩学の原理』など。あとのもろもろは省略。

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