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日記  相沢正一郎





日記  相沢正一郎

〈空をひっかいていく飛行機雲をみあげていた〉と書いた。〈ゆすりあげた紙袋からリンゴがひとつ階段を転がり落ちていった〉と書いた。〈雨になると、茶箪笥の二段目の抽斗が開けにくくなる〉と書いた。〈朝、ごはんのうえに抜けた歯がおちた〉と書いた。夜中にテーブルで日記を付けているあなたの背中ごしに、だれかが覗き込んでいる。(あのひとは誰だろう)。〈自転車のタイヤに空気を入れ、油を注す〉と書いた。〈ドアの軋むので、油を注す〉と書いた。いつのまにか、ドアの握手が手の脂で光沢を失っていて……。
 
〈晴れ〉と書いた。〈雨〉と書いた。〈曇りのち雨〉と書いた。〈雪〉と書いた。……ずうっと前、夏休みの宿題の日記を付けたときも、あなたは几帳面にその日の天候から書きはじめた。――蜩のなかで井戸で冷やした西瓜を食べたり、行水の盥のなかで地面のにおいを嗅いだり、黴臭い蚊帳のなかで酸っぱい汗のにおいの蛍をはなしたり、便所の近くに立っていたイチジクのの木の実を食べてくちびるがかぶれたり、川辺で水切り遊びをしたり、竹箒のはきめ模様を読んだり……。あなたはまだ、宿題の夢をみる。
 
〈靴下のかたっぽを家中さがしまわって、癇癪をおこした〉と書いた。〈メガネを踏んづけた〉と書いた。はれあがった頬を濡れたタオルでひやしながら〈歯がいたい〉と書いた。〈魚の骨がのどに刺さり、ごはんのかたまりをのみこんだ〉と書いた――いつかもあったよな、そんなこと。〈ドアを壊し、はずす〉と書いた。ドアのむこうには、父が斃れていた……。それから、数日の余白のあと――〈病院に駆け込み、病院のドアを開けると父は静かにベッドに横たわっていた〉と書いた。それから後も、あなたはあいかわらず足の爪を切ったり、かぼちゃの煮物を食べたり、手紙の返事を書いたり……。
 
〈父の日記を読んだ〉と書いた――《覆された玩具箱より、わが子が乾電池を舐めている。数ヶ月前までは、指しゃぶりしたいのに思い通りにいかず、目や鼻に当たったりしていたが、いまではスリッパや植木の土、安全ピン、体温計をつかむので目が離せない。先だっても、画鋲を口に運ぼうとしていた。どうやらカレンダーが風にあおられ、画鋲が落ちたようだ。あわてて画鋲をひったくる。一瞬、子は凍りつく。それから、火がついたように泣く》。……《指しゃぶりしたいのに思い通りにいかず、目や鼻に当たったりしていた》手はいま、日記を書いている。……あの顔をくしゃくしゃにして泣いていた顔、あの顔はいったい誰だったんだろう……。
 
日記を読む、ということは……好奇心のいりまじった、ちょっぴり罪の味。たとえそれが、あなた自身の日記だったとしても。息を殺してドアのノブをにぎる手に力をあつめ、そっとドアをあけて覗き見するようにして日記のページをめくると……。大丈夫、ドアのむこうであなたが斃れている、なんてことはない。でも、あなたはなぜか死者の眼差しで日記を読んでいる。だからだろう、草むしりをしたり、なにげなくちずさんでいた歌のひとふし、じゃがいもの皮をむくことにさえ、ふるい本に挿まれていた押し花みたいに懐かしいのは……。
 
〈雨が、あしもとの影の先――しろい砂利をぬらす。皺ひとつない明るい水鏡が曇る〉と書いた――どこの庭だったのか、水に映った顔が果たしてあなた自身だったのかどうか。あなたの筆圧のつよい悪筆であることは、確かなんだが……。〈静かに、テーブルクロスが夢のようにすべりおちてゆく〉と書いた(そんなふうにして、日々はつづいていく――あなたは、いびつに割れた箸や口を欠いてしまった湯呑、割ったたまごに混じった血を見て胸騒ぎをおぼえたり、夕焼けや虹、漆のしろい葉をまくりあげる風や茶柱の立つ熱い湯呑に、ひととき幸せを感じたり……。

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「作品 2011年7月29日号」の記事

  

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