岡部桂一郎を悼み、『戸塚閑吟集』を再読する
先月28日に、岡部桂一郎氏がお亡くなりになられた。哀悼の意を表したい。本稿では岡部を悼み、私が彼の最高傑作であると信ずる『戸塚閑吟集』を再読してみたい。
『戸塚閑吟集』は1988年の出版で、岡部の第三歌集にあたる。『サラダ記念日』の出版が1987年であるから、世はバブル萌芽期である。この二つの歌集を並べてみると、その隔絶ぶりに思わず溜息がもれてしまう。なんにせよ、片方が猛烈に祭り上げられる一方で、もう片方はごくごく地味に此の世に居座ることになったのであった。
そもそも岡部は、結社に属していなかったこともあり、歌壇的な名誉を受け取るのはとても遅かった。少数の限定された歌人が賞を集中的に獲得するのに対し、彼が短歌の賞を初めて受賞するのは79歳のときの「短歌研究賞」であったし、ついで88歳のときに短歌の「最高賞」と目される「迢空賞」をいきなり受賞するという経歴をたどった。名誉が実力にようやく追いついた年齢や間の省かれかたを考えると、いまでもやりきれないものを私は感じる。
吉川宏志は『短歌現代』2011年10月号に「路上の壺」と題した文章を発表している。以下に一部引用してみる。
一九九四年に、私は現代短歌評論賞を受賞した。二十五歳だった。そのとき短歌研究賞を受賞されたのが、岡部桂一郎氏で、授賞式の前に少しだけお話をする時間があったのである。たしか、白くてストライプのあるスーツを着られていて、とても洒脱な感じがあった。
しかし岡部氏は、短歌評論なんて信用していないようで、煙たがるような気配が伝わってきた。しかも年の離れた若い歌人相手だから、あまり話をする気もないようだった。もちろん、それは私の勝手に抱いた印象だったかもしれない。
だが、少し前に読んだ『戸塚閑吟集』がとてもおもしろかったので、その感想を私は述べた。
すると岡部氏は、こんなことを言われた。
「僕の歌は、路に並べて売っている壺みたいなもので、好きな人は勝手に持っていってくれるんだよ。」
こんな風に自分の歌のことを語る歌人には会ったことがなくて、鮮やかに記憶に残った。そして短歌を作り続けていると、たしかに短歌にはそんな面もあるなあ、と感じるようになった。
とても印象的なエピソードである。さしづめ私などは、岡部の露店の前で遊んでいる小僧で、わけもわからずなんとなく気に入った「壺」に見入ってしゃがみ込んでいるところを、店主に「触ってもよいよ」と言われ、おずおずとその表面を撫でているようなものである。
私は『戸塚閑吟集』を何度読んだかわからないが、読むたびに面白く、違う歌が好きになる。いろいろな世界への扉が開かれているといつも感じるのだが、今回それは何故だろうか、と考えてみて、タイトルもじっくり見つめてみた結果、ひとつの着想を得たので、ここに述べてみる次第である。
話は簡単である。『戸塚閑吟集』の「戸塚」は地名である。岡部による後書きによれば、これは東海道五十三次の戸塚の宿(しゅく)を指しているとのこと。戸塚の宿は五十三次のなかでも特に栄えた街であった。このことを心に留めてこの歌集を再読してみると、「地名」を含んだ歌が実に多いことに気付く。その地名の系統も二つにわかれ、一方は常念岳などの自然の地名、もう一方はそれこそ「戸塚」のような街の地名である。ざっと考えてみると、短歌において山や川や峠など、自然あるいは田舎の地名を用いた歌は枚挙にいとまがない。ところが、街の地名となると、「東京」や「京都」といったとても大きなくくりのもの、あるいは「新宿」「渋谷」などのアイコン的な場所の名前を用いたものは多いが、それよりも細かなくくりの場所の名前を用いたものは少ない。そこには、あまりにも「個人的」な地名であると、読者の理解を妨げるのではないのか、という作者の側の遠慮があるのかもしれない。しかし岡部においては、この種の「個人的」な地名を用いた歌が多く、またよい歌が多いように思う。以下に、『戸塚閑吟集』から地名の歌を七首選んでみたので、すこしだけ鑑賞してみたい。
電車にて鮫洲・青物横丁を過ぎるなり日々キリギリス鳴く
ひとり行く北品川の狭き路地ほうせんか咲き世の中の事
のびやかなその文体をうらやみし安吾は意外新潟の人
まっすぐにわれをめざしてたどり来し釧路の葉書雨にぬれたり
飯岡の町のはずれの街道に雑貨を並ぶ店の栃木屋
たのしげに唄う阿呆がひとりいる黒崎村は麦の刈り時
岩国の一膳飯屋の扇風器まわりておるかわれは行かぬを
一首目。電車にて、の「電車」は京浜急行電鉄である。鮫洲駅と青物横丁駅は隣接する駅で、旧品川宿に近い。この二つの駅の間隔は500mほどしか離れていないとのことで、ナカテンで二つの地名を直接つなげる意図もわずかに垣間見える。スピード感があるのだ。この歌の面白さは、もちろん鮫洲と青物横丁という地名の面白さやそれが喚起するものにもあるのだが、この地名を受ける「キリギリス鳴く」もかなり微妙なところで面白い。言うまでもなく、「キリギリス」を歌に用いるのは難しい。有名な童話や、漱石が子規の死に際して作った句など、いろんなものを歌にひっぱり込んでくる。だがこの歌では、キリギリスは単純に鳴いているだけである、ように私には思える。この、歌語の「意図」がとれそうでとれないところ、なにか通底している部分はあるのだが、すぐに繋がるわけでも、屈折しているわけでもないところ、これが岡部の歌の滋味である、と私は考えている。さらに個人的な感覚を述べると、岡部の歌はふたつの事象がただ近くにあるだけで、しかもそれらが「浮遊」しているように思える。この印象を書き言葉で伝えるのは困難なのだが、そのようにとらえる読者もひとりはいる、ということで了解願いたい。
さて、このような読みを残り六首すべてで書き綴るのは、ちとしんどい。そこで、いままであまり言及されたことのなかった歌である第六首目についてのみ述べることにする。まずは「黒崎村」であるが、岡部の年譜や
備中と備前境の村の家土間なる甕の水はわれを見る
この歌を考え併せると、昭和二十年に神戸空襲で焼け出されたのちに疎開した、岡山県旧・黒崎村(現・倉敷市)のことであるだろうし、歌の状況も明確になる。黒崎村は、岡部にとって、全てを失ったあとに辿り着いた異郷であった。そして、その黒崎村には、「阿呆」がいるという。楽しげに唄い歩いている「阿呆」の背後には、麦がみごとに実っている。なんとも不思議な、茫然とするような光景である。
歌としてはここではなによりも、「阿呆」の解釈が問題となろう。つまり、阿呆は岡部自身か、それ以外か、また、阿呆が比喩的なものなのか、それとも「事実」なのか、という点である。私は、この「阿呆」をいわゆる「聖痴愚」である、と解釈する。おそらくは実際に「阿呆」と呼ばれたひとが居り、一方で岡部はその人物を一種神聖視している、とするものである。この解釈を導くものは「麦の刈りどき」という結句である。豊穣な生命を「阿呆」の背後に配することで、岡部はこの人物を祝福している。またこれが、米でなく、麦であるところにもイメージがある。ここで私が挙げた「聖痴愚」という概念は、ロシア正教で特に有名であり、文学でいえばドストエフスキーが登場するわけだが、それには麦がふさわしい。『戸塚閑吟集』には「西伯利亜毛皮店」(シベリアけがわてん)と題する一連もあり、この解釈に影響を与えている。
『戸塚閑吟集』には、挙げた七首以外にも多くの「地名」の歌がある。その「地名」は、字の姿や響きの面白さ、あるいは「意味」を超えたところで読者に働きかけてくる。私が、『戸塚閑吟集』を読むたびに別の歌が好きになる、というのは、これら「地名」の歌群によるところが大きいのだと考えている。なぜなら、岡部の歌集に載っている地名に対する私の認識は、私が生きている限り変化しつづけるからだ。例えば、新潟の歌について、會津八一が新潟出身であるという話題が、私の記憶に定着する以前と以後とでは、また読みが異なるのである。
地名の歌は、気を抜けばすぐに観光旅行詠に堕してしまう危険性がある。しかし、『戸塚閑吟集』を再読して思うことは、地名を扱いきれている歌人というのはなかなか稀有であったのだ、という寂しさであった。