私の好きな詩人 女性詩人たち 第56回
─ 金子みすゞ、左川ちか、長澤延子、吉行理恵、山本陽子─ クリハラ冉

■はじめに

女性としてかなしいくらゐふしぎな責任/それは絶望してはならないことだ

(永瀬清子「デカダンスは」より)

 最近、詩人永瀬清子のこの言葉がずっと気になっている。女性と絶望との関係を記したこの言葉に、女性として底深く応えてくるものがある。でも一方で、女性は絶望しないのか? 女性は絶望できない絶望に立たされるということか? 女性にとって絶望とは何なのか? 逡巡してしまう臆病な私がいる

 私が惹かれてきた女性詩人たち──金子みすゞ、左川ちか、長澤延子、吉行理恵、山本陽子。

 彼女たちの言葉を思うとき、一人一人の個性は違っても、それぞれの言葉の底に決してきれいごとではない女性と絶望との深いやりとりがなされていることを感じる。傷口のような闇からまっすぐに届く光にもにた彼女たちの言葉をここに引いてみたい。

■〈思想軸〉の女性詩人たち──金子みすゞ、山本陽子、長澤延子

消える、消える、花火。 
消えてはなにに、
見えない國の花に。

(金子みすゞ「花火」より)

真の人間は すべてのカテゴリーをこえる芸術家、真の芸術家はすべてのカテゴリーをつきぬけた人間、 人間は歴史をこえて存在し、現実の世界を発見して 私たちのなかに生きる。死も彼らをむしばんで  無に帰することはない。ひとりの人間が生きたとき、言葉にならぬ言葉、言葉以上の言葉が深淵から ひらめき、それは不滅の存在となって 全人類が死に帰した後も 宇宙のあいだにかがやきつづける。

(山本陽子「神の孔は深淵の穴」より)

私の墓を
幾度び幾度び過ぎる春秋の中で
人々の歩みと
やがては 忘られた勝鬨さえ聞くことが出来るだろう
 
友よ
その時こそ私の魂は歓喜に満ち
その時こそ私が死ぬ時なのだ
墓の中の魂は春にめざめ
再びの別れを 
 
その墓に告げる時なのだ 
友よ
その時こそ忘却の中で
大きな旗
大空に向って打ちふってくれ
その逞ましい腕のつずく限り
私に向って打ちふってくれ 

(長澤延子「別離」より)

 金子みすゞ(1903-1930)の詩は平易な言葉で書かれていて誰もが読める。が、彼女の指さす「見えない國」は、未だ誰も見たことのないものだ。  「神の孔は深淵の穴」は1966年、山本陽子(1943-1984)23歳のとき、同人誌「あぽりあ」創刊号に寄せた作品だ。人間と言葉への透徹した確信にみちている陽子の言葉にうたれる。それにしても、全人類が死したあと宇宙にかがやく不滅の言葉を聞くのは誰だろう…。

 長澤延子(1932-1949)は戦後彗星のようにあらわれ17歳でこの世を去った女性詩人だ。延子の詩「別離」は、「友」へ別れをつげ、「私」は死へと旅立つという内容である。だがこの詩における〈死〉は、既存の死生観でははかれない。延子によって作り上げられた延子だけの新しい〈死〉である。  幼いころから「心には虚無が吹き荒れていた。」(「手記Ⅲ」より)という延子だが、「無色無臭の虚無の存在は少くとも人類が存在する限りは許されていない」(「手記Ⅱ」より)と、虚無や絶望そのものの正体を、10代の少女の身一つで 命がけで突きつめていった。

絶望を、生はんかな感傷や自虐でごまかさずに、恐れずその涯まで歩みよって行くこと、 
絶望の涯、虚無の涯は同時に輝かしい創始の足跡なのだから。

(長澤延子「Tへの手紙」より)

 金子みすゞ、山本陽子、長澤延子、彼女たちは、人の一生の時間軸をはるかに超える個人の理想を詩にした〈思想軸〉の詩人たちである。彼女たちの死は絶望でも虚無でもない。彼女たちは既存の死生観に依らずに独自の死を想像した。いのちの終焉であるはずの死が、死してなおいのちであるかのような生命感にみちている。死んでいながら生き、なお生きつづけている…。

■〈暗喩軸〉の女性詩人たち──吉行理恵、左川ちか

 樋口一葉のこんな言葉がある。

 われは人の世に痛苦と失望とをなぐさめんためにうまれ来つる詩のかミの子なり  
われはこの美を残すべく しかしてこのよほろびざる限り わが詩は人のいのちとなりぬべきなり

(樋口一葉「詩のかミの子」より)

 一葉のこの発言は、一葉の文学の核が詩・小説等のジャンルを超えてポエジーであることを語っている。  「汝を法通妙心信女と名付く、喝」(一葉「よもぎふ日記」より)と生きているうちに自らに戒名をつけ「死者の目」(井上ひさし)からこの世を見つめたという一葉が描きつづけたのは、この世の底辺を生きる女性たちだ。  このことから思い出す女性詩人がいる。〈暗喩軸〉の詩人、吉行理恵(1939-2006)だ。理恵はこんなことを書いている。

『トニオ・クレエゲル』の「人は創作者になりきるためには、死んでいなければならない」という件りを、本当に理解する

(吉行理恵「詩とは命をかけた真剣な遊び」より)

 一葉の「死者の目」同様、「死んでいなければならない」という理恵の視座は、実際に死ぬということとは違う。では、生きながら死んでいる詩人の視座とは、どういうことなのだろうか。  吉行理恵と同じ〈暗喩軸〉の女性詩人・左川ちか(1911-1936)の「會話」という詩がある。

──不滅の深淵をころがりながら幾度も目覺めるものに鬨聲となり、その音が私を生み、その光が私を射る。 
この天の饗宴を迎へるべくホテルのロビイはサフランで埋められてゐる。

(左川ちか「會話」より)

 左川ちかの「私」のいる位置は、この世の深淵だ。深淵をころがる「私」は誰かの鬨の声によって生みおとされる。のっけからこの「私」は自力では抜け出せない不滅の深淵をころがっているのだ。真っ暗な深淵の視座から発せられる言葉だからこそ、ちかの描くサフランで埋められたホテルのロビイという光景が鮮烈な美しさとなって人々の心に映る。生きながら死んでいてなお生きている詩人の視座とは、絶望の淵に身をおいて世界を見る孤独な深淵の視座のことなのだろう。

 いま私は〈孤独〉と書いた、しかしこの深淵の視座とは、孤独であって孤独ではない。一葉の「わが詩は人のいのちとなりぬべきなり」という一言のように、深淵の視座に立つ女性詩人たちは他者の絶望を救おうとする詩人たちだ。絶望の暗い淵におちいるとき、それはまた他の絶望の淵にいるものの存在をも痛く感じるようになる。彼女たちは、自分だけがその絶望の淵から救われようとはせず、自らが犠牲体となり他者を救うことで、自らも救われるのだという…。

海や山や高原の空が美しいのは、美しさを讃えてくれる詩人がいるから、
ほめられればほめられるほど空は美しさを増します。

(吉行理恵「綱渡り」より)

■おわりに

 こうして私の好きな女性詩人たちの言葉を紐解くとき、一人一人の個性は違うが、女というものがもっと奥深く底知れぬものだと知る。

 “絶望の淵に落ちてごらん、絶望の淵に身をおいたならもう絶望しないですむでしょう?”と言っているような〈暗喩軸〉の女性詩人たちも、“虚無の涯まで行ってみること、そこにあるのが虚無でしかなくても、まだ虚無があるのならそれは虚無ではないでしょう?”と言っているような〈思想軸〉の女性詩人たちも、どちらの言葉も真っ暗であかるい…。その真っ暗なあかるさを想うとき、冒頭の永瀬清子の言葉と響き合うような、女の不思議な力を感じるのだ。けれどもその力とは、女に生まれれば当たり前に発揮できるというものでもなく、女には虚無や絶望の闇におちいらないよう受けとめてくれるあたたかな光が誰かから用意されているということでもない。

 彼女たちのその底知れぬ力はどこからくるのだろう。それは、命はみな“女”から生まれるというその“女”だろうか。女にとっても深淵にあるその“女”の力にタッチしえたということだろうか。女に生まれた女にとっても“女”の力はいまだ未知のものなのだと思う。女の私が中途半端な女への不信にひきずられていては永遠に“女”の力にタッチできないだろう。この“女”の力が彼女たちの絶望も虚無も呑み込む真っ暗なあかるさの核だと感じる。

 そして自問することは、私の惹かれてきた女性詩人たちは“女”の深淵に飛び込むことをいとわない生来の勇敢な女性詩人だったのだろうか、彼女たちこそ臆病に逡巡したのではないだろうか? わずか17歳の少女の身一つで世界を抱きしめようとした長澤延子も、たった2部の手製の詩集を遺して逝った金子みすゞも、生来病弱で目が悪く生前詩集刊行のないまま24歳で胃癌でなくなった左川ちかも、晩年の約十年間を沈黙し蔵書のほぼ全てを処分しながら「あぽりあ」と遺稿だけは手元に遺していた山本陽子も、二十年間詩の発表はなかったけれど最期の最期まで詩を想いつづけていた吉行理恵も——。彼女たちこそ臆病に逡巡し、たった一人で幾度も幾度もその淵を突きつめ書き費やし尽くしたその涯に、絶望も虚無もない真っ暗なあかるさが、今ここに生きる私の心へと打ち寄せてくるのだ…。

参照●「江古田文学」39号/43号金子みすゞ特集、69号左川ちか特集、68号長澤延子特集、73号吉行理恵特集、「えこし通信」5号山本陽子特集、6号左川ちか特集、7号/18号長澤延子特集、9号/12号女性詩人特集、11号吉行理恵特集ほか

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