大阪の書店で、旅と詩について語るトークイベントに出演したとき。出演者が実際に自分の「旅行カバンの中身と旅の本」を展示するという企画があった。ぼくがボストンバッグに詰め込んだ物は、着替え、『山崎』の小瓶、銀のジッポーとゴロワーズを2パック。詩が書きたくなったら、どこかでノートとボールペンを買えばいい。そこまではいつも通り。問題はどんな本を持っていくか。「石田さんは詩人だから、詩集でお願いします」という書店さんの要望もあって、海外ミステリは×。詩文庫の『田村隆一詩集』は暗唱できるほど読み込んでいるし、金子光晴も旅行にはちょっとなあ。ジャック・レダもいいけれど。そんなときに閃いたのが、20年近く読んでいるウィリアムズ。
「赤い手押し車」
思わず
見とれる
赤い車輪の
手押し車
雨水でツヤツヤ
光っている
そばには白い
鶏たち(原成吉訳/思潮社刊『ウィリアムズ詩集』より)
ストレート&ノーチェーサー。日本の現代詩の読者なら「これが詩?どこが面白いの?」と訝るほど単純明快。ウィリアムズの詩には余計なものが一切ない。この詩が詠まれた情景も、庭先にある手押し車と鶏がいるだけ。特別なものは何もない。車窓のガラスを吹き抜けていく、麦畑の青い音楽と、同じ大地から生まれた言葉だ。詩の読後も、物は物のまま。写実詩とちがい、事物は目の前にある現実世界から一歩も外に出ない。ただ、それだけ。だから、余計な言葉でこの詩を語ろうとすると、かなりややこしいことになる。同世代の象徴派詩人、ウォレス・スティーブンスはウィリアムズを「ディオゲネスのような奇行の詩人」と呼んだ。旅の伴侶にこれほどいい詩人はいない。改めて頷く。
詩を書いていて、言葉が観念の危うい奔流に押し流されそうになると、ぼくはペンのキャップを閉め、グラスにスコッチを充たす。それから、ウィリアムズの詩に読み耽ける。柔らかく暖かい詩の雨粒に濡れ、清潔でピカピカの赤い手押し車を、自分の魂に取り戻す。