喪失ではなく 吉原幸子
大きくなって
小さかったことのいみを知ったとき
わたしは“えうねん”を
ふたたび もった
こんどこそ ほんたうに
はじめて もった
誰でも いちど 小さいのだった
わたしも いちど 小さいのだった
電車の窓から きょろきょろ見たのだ
けしきは 新しかったのだ いちど
それがどんなに まばゆいことだったか
大きくなったからこそ わたしにわかる
だいじがることさへ 要らなかった
子供であるのは ぜいたくな 哀しさなのに
そのなかにゐて 知らなかった
雪をにぎって とけないものと思ひこんでゐた
いちどのかなしさを
いま こんなにも だいじにおもふとき
わたしは“えうねん”を はじめて生きる
もういちど 電車の窓わくにしがみついて
青いけしきのみづみづしさに 胸いっぱいになって
わたしは ほんたうの
少しかなしい 子供になれた———
「幼年連禱」 歴程社 1965年
「いまこんなにもだいじにおもふとき」、例えばこんな書き方は、いまの現代詩では、もうされない。なつかしい風景の中から歩み出て来た言葉だ。詩を読む時、未知の世界からのインパルスを期待している自分にあらためて気づく。だがそれでも、この詩には「胸いっぱいに」なる。サン・テグジュペリではないけれど、私たちは子ども時代の者なのだ。
大人になるとは、幼年時代を喪失することではない。なぜなら、大人になって初めて、人は幼年時代の価値と意味がわかるからだ。むしろ幼年時代をもう一度獲得すると言えるのではないだろうか。その頃は、子どもとして、悲しいことが多かったが、それこそがぜいたくな人生の宝の部分なのだ。「わたし」は今、子どもの時に感じたあれこれをもう一度体験して、胸が一杯になっている。
何らかの事情で、幼年時代に子どもをまっとうせずに、大人の形になってしまった人も世の中には少なくない。アダルトチルドレンと呼ばれる人たちもいる。だが、この作者はそれなりに幸福な子ども時代を送ってきたような気がする。ただ並外れて鋭く繊細な感受性を持っていたために、悲しみもつらさも人一倍だったのだろう。その感受性のおかげで、作者は“幼年“のまばゆさを発見することもできたのである。ただ、もう一度体験するかなしみは「少し」。
旧仮名遣いの詩なので、読むにあたって、旧仮名辞典で「えうねん」を調べた。残念ながら「えうねん」は「幼年」のことであった。私は密かに「永遠」であるといいなと思っていたのだ。その望みはかなわなかった。