私の好きな詩人 第63回 ― 西脇順三郎 ― 広瀬 弓

私は詩を書き始めた頃、詩を書くとは感性を飛ばしてきらきら輝くものを捉えることではないかと思っていた。また、好きには明らかな理由があって好きな場合と、理由がよくわからないが好きな場合があり、私は後者の方により惹かれていく傾向があった。それは自分の背後に潜む感覚的、本能的、肉体的な本質に係わっているのではないかと探ってみたくなるからだった。

天気

 

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

(『Ambarvalia』より)

宇宙を構成するもの、また万物が生ずる根元的存在の出現を捉え顕わした詩と思う。室生犀星がこの作品を評して、「詩人はこういう詩を三つも書いておけば、あとは寝て暮らしてもよい」。と賛美したという。その様な解説も言葉も思い浮かばなかったが、私はカラスがガラスの破片や宝石などきらきら光るものに魅かれるように、西脇順三郎の詩に魅かれた。 

〝(覆された宝石)のような〟というとどこかで見たと感じる表現かもしれないが、朝と宝石箱をひっくり返した情景を連結したのは、この詩が最初ではないだろうか。私はいつも水平線に昇る太陽の烈しく神々しい輝きを思い浮かべる。ところが、遥か彼方から近くの戸口に突然ズーム・アウトする。急な戸口への視線の移動は、私に少しおかしな場面を想像させる。扉のこちら側にいる人と向こうにいる人が話をしているのだが、向こうの人の姿は何かの陰に隠れて見えない。声を潜めて天地の神秘に関する重大な話をしているに違いない。姿の見えない人は天の使いではないだろうか。受胎告知のマリアと天使ガブリエルのような絵画的情景が浮かぶ。このような妄想が湧くのも〝神の生誕の日〟が作用したからだろう。西脇は遠い位置や関係にあるものを予期しない状態において、結合、連結し、また逆に近い関係にあるものを引き離して新しい想像世界をつくるという方法論を持っていた。また、超現実の世界を創造することで感性に驚きを与え、ポエジーを呼び起こそうとした。

太陽

 

カルモヂインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあった
ヒバリもいないし 蛇も出ない
ただ青いスモモの藪から太陽が出て
またスモモの藪へ沈む
少年は小川でドルフィンを捉えて笑った

(『Ambarvalia』より)

計れない時間が鮮やかに映し出され留められている。人はそれを永遠と呼ぶかもしれない。カルモヂイン、大理石、ドルフィン、明らかに西洋的な景色である。青いスモモはプルーンのことらしい。太陽が出ては沈み、沈んでは出るスモモの藪は大地の延長、再生の象徴だろう。始めもなければ終わりもない時空の遠景から、小川でドルフィンを捉える少年にズーム・アウトする。少年は裸のキューピットのように見える。絵画的な実在感のない世界で、スモモの藪だけが黒々と不思議な生命力を持って存在している。

西脇の特徴に、不明な固有名詞、難解な語句、深い学識や豊な教養からのパロディやイリュージョンがある。〝カルモヂイン〟とはカルモチンという睡眠薬をもじった造語だそうだ。ミケランジェロが彫刻に使った石材の産地がカルラーラであること、石切場にミケランジェロが生まれたことから、「カル」の語呂にあわせたという。西脇は洒落やもじりを作品中に好んで取り入れた。

知識を以て読み解くことで詩の味わいが増すのも魅力だが、直観するイメージの輝きから呼び起こされる感性の飛翔を体験できる西脇の詩が、私は好きだ。

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