秋雨や空杯の空溢れ溢れ
「空杯の空」、この謎めいたなフレーズからまず連想したのは、老子が「無用の用」を説いた次の一節。「埴(ねばつち)を挺(こ)ねて以(もつ)て器を為(つく)る。其の無なるに当たりて、器の用有り。」
ところが耕衣は『俳句窮達』でこう書いているのである。「(我々が俳句を作っているのは)実に無用千万な、無用が有用にならぬ、そんな無用のワザを仕出かしてゐるといふことになる。無用の用などといつて自ら慰めてゐるのはチャンチャラおかしいのである。無用の無用でよいのである。
」
となると「空杯の空」も、杯として用を成すことを前提とした「空」ではなく、ただ、そこにある、無用の無用なる「空」ということになろうか。確かに勢い余ったような下五「溢れ溢れ」にはこの世の「有用さ」にとらわれぬ響きがある。
耕衣はこうも書いている。「立派な茶碗は、なにも『茶』がいれてなくても、それ自身『虚空』をつねに充分容れ、かつ溢れしめている。
」(『山林的人間』)また鳴戸奈菜編著『田荷軒狼箴集』によれば、「古田紹欽著の『禅の表現美』には『茶を飲む』ということは要するに『虚空を飲む』ことであるという一節があり、耕衣の共鳴する所だそうである。
」とのこと。
秋の雨が静かに降っている。卓上の空杯は空杯のままに充たされている。のみならず、杯の底からは泉のように「空杯の空」が湧き起こり、辺りに溢れてゆく――。
「虚空」の輝きが、上質の茶の一服のように読む者の心身を覚醒させる一句。(昭和39年『悪霊』より)