戦後俳句を読む (24 – 3)永田耕衣の句【テーマ:獣・魚】/池田瑠那

恋猫の恋する猫で押し通す

愚行権、という言葉を、最近知った。大まかに言って、たとえ他人から愚かしく思われる行為であっても、周囲に迷惑を及ぼさない範囲ならばそれを邪魔されない自由のことだそうである。猫に愚行権があるのかどうか知らないが、もし春先の恋猫達の行動を諌めようとしたならば、この「愚行権の行使」を主張されるのではないか、などと思った。(恋猫の声は、「周囲に迷惑を及ぼさない範囲」を超過しているような気もするが)

掲句は昭和27年刊『驢鳴集』所収。『驢鳴集』収録句の制作時期は昭和22~26年頃、即ちいまだ敗戦の衝撃生々しい時期、また敗戦により人々の物の見方、考え方が180度転回した時期といえよう。そんな中、耕衣は春が巡ってくる度に性懲りもなくさかり、鳴き喚き、激しい喧嘩を繰り広げる恋猫たちのある意味「終始一貫した愚行っぷり」に、いっそ清々しいものを感じたのではないか。人間は暗黙のうちに「愚行などしない、有用の存在」であることを求められる――実はその「有用」の定義付けのうちには、時代が移ればあっさり覆ってしまうものも含まれているのだが。「恋する猫で押し通す」には、時代の空気に翻弄される人間の、恋猫達に対する羨望も読み取れる。そして、改めて考えてみれ

ば恋猫たちの愚行の数々は、恋のため、突き詰めれば猫族の次世代を生み出すための行いなのである。人間社会の時局など度外視の恋猫達には、脈々と受け継がれた自然界の生のエネルギーが横溢している。(昭和27年刊『驢鳴集』より)

近海に鯛睦み居る涅槃像

耕衣俳句の中でも有名なものに属するだろう。涅槃図、涅槃像は陰暦2月15日(釈迦入滅の日)に営まれる法会で礼拝される図画や彫像のことである。涅槃図には、入滅の釈迦(寝釈迦)と共に、嘆き悲しむ様々な階層の人々、諸菩薩、鳥獣の姿が描き込まれるものであり、涅槃像も(直接的に周囲の人物鳥獣は表現されないにしても)このイメージを負うものである。さて掲句の上五中七「近海に鯛睦み居る」、この「睦み」には生殖の営みの意を読み取らねばならないだろうが、敢えてもう少し広く「仲良くする、親しくする」の意で取ってはどうか。涅槃図・涅槃像は、言わば一つの悲しみを多種多様な者が共有し、共に嘆き悲しむ様を示す物である。そこに、他者の成功が自分の転落であり、自分の成功

が他者の嫉妬や憎悪の対象となるという、いがみ合いを礎としたこの世界の構造をひとたび解体したいという祈りが込められているように、筆者には思われる。利害得失の打算が渦巻く俗世では、喜びの共有より悲しみの共有の方が、恐らくまだしもやり易いだろう。事細かに描かれた涅槃図の生き物達、あの鳥が貴方であり、あの犬がたぶん私だ。涅槃図・涅槃像に、悲しみの共有から出発した新たな世界(恐らく互いを生かし合う関係を礎とする)構築への希望が描かれたのだとしたら――涅槃図・涅槃像に託された心は近海の鯛の「睦み」にも通じている。春の海に翻る薄紅の鯛達の姿が、鮮やかに思い浮かぶ。(昭和三十年刊『吹毛集』より)

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