戦後俳句を読む (24 – 3) 齋藤玄の句【テーマ:魚】/飯田冬眞

裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈

昭和52年作。第5句集『雁道』(*1)所収。

齋藤玄の晩年の三句集(『狩眼』『雁道』『無畔』)から魚の句を見つけるのはたやすい。そしてあることに気が付く。「なぜ、こんなにも鯉の句が多いのか」と。『狩眼』17句、『雁道』24句、『無畔』5句。数字を並べてみてもあまり意味はない。

曠野より遠へ行きたき春の鯉   昭和47年作 『狩眼』

〈春の鯉〉に自己を仮託しているのはあきらか。病床にある玄は、春の野原に遊ぶことを夢想した。池の中を泳ぐ鯉もまた、自分と同じく池の外に出ることを希求しているにちがいないと把握した。そして〈曠野より遠へ〉という空間的な範囲を示したうえで〈行きたき〉という心情をダイレクトにぶつけることで、〈春の鯉〉の閉塞感と作者の鬱勃とした心情が重なりあって、リアリティが増してゆく。こうした対象への観念的同化は齋藤玄の俳句のひとつの特徴でもある。

寒鯉に見ゆれ光の棒に見ゆれ   昭和50年作 『狩眼』
動かぬが修羅となるなり寒の鯉   昭和50年作 『狩眼』
寒鯉の腹中にてもさざなみす   昭和50年作 『狩眼』

対象を観念的に把握しているとはいえ、基底部にあるのは、対象を凝視する確かなる眼であることは疑いようがない。

たとえば、一句目、動きのない寒鯉を見ているうちに、それが〈光の棒〉なのか〈寒鯉〉なのか、判然としなくなる。その感覚のゆらぎを〈見ゆれ〉のリフレインによって表現しているのだが、ここにも凝視のちからを読み取ることができるだろう。

二句目、水底に魚体を沈めてじっと動かない〈寒の鯉〉を見て、そこに〈寒の鯉〉の動かないことへの執念を読み取ってしまうところが、さきほど指摘した「観念的同化」にほかならない。感覚器官を通して対象の特徴を概念的にとらえたあと、心象内で対象と自己とが同化してしまう。それを観念的同化と名付けてみた。〈寒の鯉〉もほんとうは動き回りたいのだ、しかし、動かないことに決めたから何が何でも動かない。そうだ、寒鯉は今、水と戦っているのだ。そうに違いない。動かないように水と争っているのだ。その観念的把握が、〈動かぬが修羅となるなり〉という措辞に結実して一句を構成していく。

三句目の〈腹中にても〉がまさしく観念的把握であり、眼前にあるのは〈寒鯉〉と〈さざなみ〉でしかない。〈寒鯉〉の静と〈さざなみ〉の動を結び付けているのは、玄の心中で混ざり合い、つかみ出してきた造型のためのことば〈腹中にても〉にすぎない。そこがこの句の生命線である。水面に起きた〈さざなみ〉が水中の〈寒鯉〉にまで及び、動かない鯉の腹中に入って通り抜けてゆくまでを写生したものである。見えてはいないものを見えているように描くこと。虚実の間にひそむ真実をことばのちからでとらえようとする齋藤玄の意思のようなものが、この句からもうかがえるだろう。

鯉喰つて目のあそびゆく冬の山   昭和50年作 『雁道』
声持たぬ涅槃の鯉と遊びけり    昭和51年作 『雁道』
ひるがへる遊戯を尽す秋の鯉    昭和51年作 『雁道』

鯉と遊びをモチーフにした三句をあげてみた。

一句目の不思議なおかしみは〈鯉喰つて〉の俗っぽさと〈冬の山〉の神々しいまでの静けさが同列に扱われている点にある。〈目のあそびゆく〉に作者の心象がよく表れている。ここで喰われているのは、筒切りにした鯉の切身を赤味噌汁でじっくり煮込んだ「鯉こく」だろうか。あつあつの鯉こくをすすりながら〈冬の山〉に目を泳がせてしまったことを鯉に言い訳しているような気分が伝わってきて楽しい。人は皆、他の生き物を喰うことでしか生きられない。この世に生きるものの哀しみのひとつである。避けて通れない哀しみであれば、生き切るしかしょうがないのである。根源的な哀しみをおかしみに包んであらわすのが俳諧のひとつの道筋でもある。二句目、三句目は、そうした玄の考えが〈声持たぬ〉、〈遊戯を尽くす〉ににじみ出ている。

裂く鯉の目には涅槃の見ゆる筈    昭和52年作 『雁道』

人の口腹を満たすために鯉は裂かれている。もちろん鯉の目に〈涅槃の見ゆる筈〉などない。涅槃自体が人間の生み出した観念だからだ。だが、涅槃の日に鯉を裂くという殺生を犯すことを誰がとがめられよう。誰人もとがめようがない。しかし、罪の意識は人の心に残る。だからこその〈涅槃〉なのではないか。人に裂かれて喰われていく鯉の姿に人の命を慈しみ自ら身を投げ出した仏の姿を見出したおかしみ。そして、裂かれる鯉に仏の姿を見出さざるを得ない哀しみが、この句にはある。明らかに嘘であるにもかかわらず、〈涅槃の見ゆる筈〉の〈筈〉という肉声のことばがあることで、一句にリアリティが生まれている。それが肉声であるがゆえに、読者を「そんなばかな」という観念世界から「そうかもしれない」という虚の中の実へと軽みに包み込んでいく心地よさを持つ。

「詩は肉声であること」と書いた齋藤玄の達成を示す一句といえるだろう。


*1  第5句集『雁道』 昭和54年永田書房刊 『齋藤玄全句集』 昭和61年 永田書房刊 所載 

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