私の好きな詩人 第3回 – 谷合吉重- 渡辺めぐみ

私の好きな詩人―――――谷合吉重氏について 渡辺めぐみ

 好きな詩人について書くようにとのことだが、好きな詩人は沢山いるので、まだあまり知られていない第一詩集を出したばかりの詩人の中から強烈な印象を残した詩人を紹介したい。野木京子氏が率いる「スーハ!」の同人で年齢的に決して若くはない谷合たにあい吉重よししげ氏だ。昨年七月に思潮社から『難波田なんばだ』が刊行された。稲川方人氏の装丁による帯には、「没近代のありふれた地勢に木霊する民の聲/その聲をもがりの風に聞く長篇詩集!」とある。一気に読ませられる迫力に満ちた詩集である。

 故郷難波田の歴史的推移に自己を没入させながら、作者自身の故郷との違和とその格闘の苛烈な傷みと孤独とをたたきつけた一つの絵巻物を見るような思いのする詩集である。難解で、何が書かれているかを読み解くことよりも、場面転換の妙を楽しみつつ、これほどに描かれなければならなかった詩人の魂の叫びに共振し、かつその叫びの根源の陰惨なときに影を帯びる背景に血の通う者すべての生存の意義を問いただせばよいのではないだろうか。

 激しさに牽引される難波田の物語にあって、事象の捉え方とその言葉の置き方に、詩人としての才気を確信させる息の止め方がある。文脈の中に浮かび上がる詩情ではなく、瞬間瞬間に詩が屹立するのである。「ゆきずりの子は/生母への怖れからか、/ほどかれた包帯のような/声を張り上げる。」「青白い光の下に/ きりきりと/  白いユッカ蘭が咲いた」「この村には当然のごとく/故郷はなく局面というものがない。」「母を喚んだ夏を想う/高く高く/落ちることを//学ぶ」など。重厚な厚塗りの絵の中で、例えばこれらの詩行が立ち止まりたい思いを起こさせる。

 共同体の因襲と秩序が作者を圧し、その束縛の中で懸命に人であろうとする作者にとって、その精神と肉体にかかる負荷のすべてが詩として結実していると言えるのかもしれない。このような詩は開かれているのか閉じられているのか、絶えまなく介在する「母」の存在も含め考えさせられる。けれどもどこまでも血の濃さを担いつつ、あらがいの全過程を露出させることで、生存のぎりぎりの条件を問うかのような詩人の姿勢は、非効率的なサイクルの中にこそ育まれてよい生命の重量を読者に受け渡してもくれるのだ。「茜さす鉄路の下をくぐり/ 影泳ぐ榛の木の下/鎌持つ母を想う/ 果てまで生きますと誓う少年に/見はるかす難波田平野の/ 万緑の稲田は/青き焔の海原だった/ 都会の路地の片隅で/果てまで生きますと/ もう一度誓う」

 無骨なまでの真摯さが、谷合吉重という詩人のテキーラのような熱情と直結してもいるのだろう。「母の声はキヨシぃの胴間声を/     抑え、村中に響き渡る/(    /直立せよ/    直立せよ/円錐花序を直立せよ!)」

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