私の好きな詩人 第6回 – 石原吉郎 – 広瀬大志

折に触れて好きな詩を読み返すことは多いが、詩人という括りでその生涯に渡る大量の詩篇に幾度となく漂うということになると、ほんの一握りの詩人に限られてしまう。その中でも石原吉郎は西脇順三郎と並び、僕にとっての「最も多く繰り返し読み続けている詩人」である。

そして僕は、石原吉郎に音楽を聴きにいく。

(特に)石原吉郎という詩人の、詩への接し方や思い入れの在り方は、人それぞれであると思う。例えば「私にとっては、いつかは私が死ぬということだけがかろうじて確実なことであり、そのような認識によってしか、自分が生きていることの実感をとりもどすことができない状態にあった」(『望郷と海』) という、シベリアでのラーゲリ体験から必然的に導かれた死生観として詩を読みとる人も多くいるだろうし、石原の極めてストイックな言葉の振り絞り方はまさに「沈黙するための言葉」(同上)として顕在化しているのだろう。それは「詩を書くことによって、終局的にかくしぬこうとするもの」(同上)であっても、詩は「不幸な機能」(同上)として表現を執行するのだ。

しかし僕は、石原吉郎に音楽を聴きにいく。

すべての沈黙の冒頭へ
沈黙とかかわりなく
石塔が立つ
立つことにおいて それは
冒頭の面目である
石塔をして所在あらしめよ
それが沈黙の理由である  (『冒頭』)

何度も何度も読み返すたびに、石原の詩からは(それは決して定型的な音調としてではなく)、まるで一つの強く緊張した意志のような波動が、旋律化して耳に届いてくるのだ。かつて「詩作にあたって何にもっとも心をくだくか」という質問に対して、石原は「リズムである」と答えた。それは単にレトリックの範疇として「「うた」の復権」という文脈に回収されてしまう答であったかもしれないが、僕はむしろその「リズム」を語彙のまま鵜呑みにして、石原吉郎の詩のオリジナリティは「断のリズム」ではなかろうかと推察する。拍子を打ち続けるのではなく、断ち続ける音楽。それを詩として反転させるならば、一行あるいは一つのスタンザとして、読みは一瞬流れを断たれ、しかし断たれることでまるで見得を切るようにそれぞれが際立つのだ。

この日 馬は
蹄鉄を終る
あるいは蹄鉄が馬を。    (『断念』より)

だから僕は、石原吉郎に音楽を聴きにいく。

あらゆる「断」を味わいに。断定、断念、断罪、断腸、断言。

そこには迷いの意志はなく、ただ始まりから終わりまで鳴り止まない音楽のいたるところに、「美しさ」と呼んでいいほどの言葉が頑なに黙っている。

執筆者紹介

広瀬大志(ひろせ・たいし)

詩集『草虫観』『ハードポップス』『髑髏譜』(いずれも思潮社)など

個人誌『妖気』

同人誌『hotel』『ヒマラヤ』

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