私の好きな詩人 第8回 – 茨木のり子 – 岡田ユアン

 詩集コーナーが書店でどんなに縮小されようとも、必ず名前を目にすることができる詩人の一人と言える方ではないでしょうか。今回「私の好きな詩人」に茨木のり子の名をあげます。理由はしごく明快なもので、作品から生きることへの心意気が伝わってくるのです。多くの詩人の優れた作品からもそれは流れてくるものですが、茨木のり子の作品からは直接的に私へと流れてきます。そして、真正面から<生>を受けて立つという姿勢に「おっとこまえな詩人だな」などと舌を巻いてしまう。こうして文字にすると「男前」とはという言葉のチューニングをしなければならないし、「男前」という表現自体時代錯誤な言葉であるかもしれないが、単純な筆者は茨木のり子の詩を前に、ただ背筋を正してそう思うのです。何かを「好きだ!」と断定できるものがさほど多くはない私にとって、「好き」という言葉に多少の抵抗を感じながらもこうして文章にしている次第です。

 作品は女性性に転がっていかない。精神で詩を書こうとしているところに惹かれます。子宮というシンボリックな語彙の用い方も独特です。自らの内にもあるという感覚的な言葉ではなく、観念的な扱いをする。生みだすものという印象ではなく、希望的なもの絶望的なものを孕む混沌を抱えた未知なるものとしての意味合いをもたせている。

おもうに
この国の稚い子宮は
したたかな絶望を
敢然と孕まねばならぬ
何度でも
何度でも
何度でも

(「民衆のなかの最良の部分」)

 子供を描いても自身との距離が保たれ、肉感的な表現ではなく子供の発想や行動の意外性などに視線を向け触発された経験をうたったものが多い。谷川俊太郎氏と保富康午氏に「女でなければ書けない詩をなぜ書かないのか」と挑まれたことを覚えている。このように「「櫂」小史」に記している。本人も自覚していたのだが、意識的にそのようにしているわけではないと私は考えている。

子供がいなくたって
人間の昨日今日明日にはかかわりますよ
執拗に

(「ゆめゆめ疑う」)

 思念に誠実であろうとする生き方が何かを生んでゆくと信じていたのではないか。その何かとは、こころざしとも呼べるもので〈昨日今日明日〉と自身を貫くもの。それを終連の先に見えない詩行として感じるのです。子宮が本来の役割を果たさずとも、生きてゆく姿勢に変わりはない。性差を越えた強さを感じる。私はそこに鼓舞されるのかもしれません。

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