私の好きな詩人 第31回 ―田中宏輔― 河野聡子

好きって、むずかしい

好きって、むずかしい。アレが好き、コレが好きって簡単にいうけど、ケーキが好きとか、あの人が好きとか、算数が好き(でも宿題は嫌い)、お好み焼きが好き(焼くのと食べるのが、でも準備と片付けは嫌い)とか、いろいろあって、で、好きな詩人について、と聞かれるわけである。好きな詩人についてと言われると、好きっていう言葉はどこについているのかな、と考えこんでしまう。詩についているのか、人についているのか。「詩人」っていう言葉は<詩>を(何する)<人>ってことかな? で、この「何する」に入るのは「作る」っていう言葉じゃないかな? でも詩なんて全然作ってないけど「あの人は詩人だ」と呼ばれる人がいるから日本語って面倒で、「あいつのどこが詩人なんだ」「いやほらそんな雰囲気あるじゃん」とかね、いい加減にしろと思う。一方、詩というのは作者にべたりとくっついていて、詩は、書いた人そのものだ、という印象はいつも、どこかにとりついている、怨霊みたいに。だからこんな美しい詩を書く人だからきっとすべてが美しいに違いないよね、なんてかんちがいが生まれたりして、もちろんそんなことはどこにも保証されていなくて、いつだって書かれたものは書いた人とはちょっと別のところ、上の方というか、あさっての場所にいて、どう見ても書いた人本人とはちがう何かで、そのちがう何かが私を驚かせたりうっとりさせたり慰めたりしているのに、よく掛けちがえて「これを書いた人はこの書かれたものそのままに美しい」(またはおぞましい/醜い…etc.でもいいけど、私はこっちは記憶しない)と思いたがったりする。

でもとにかく、書かれたものは人とちがうところに確実にいる、幸せそうでも不幸せそうでもなく、ただそこにいる、なんて素晴らしいんだろう、書かれたもの、記号の集合体が、ただそこにいることが私はうれしい。だけど一方で、書かれたものにはたしかに、書いた人の何かが投射されているにちがいないとも思う。それがどんなふうに、どうやって、と説明するのはとても難しく、ましてや日本語で証明することなんて絶対不可能だとしても。そしてこの記号のまとまりはなんて素晴らしいんだろう、なんて私をわくわくさせるんだろう、と思ったとき、この記号のまとまりを作った人が確実にいて、この世界に存在している、ということがとてもうれしくなるのもたしかなことだ。とりあえず好きって、こういうことでいいかな?

というわけで私が「好きな詩人」は田中宏輔なんだけど、彼の手にかかると、いや彼の宇宙の中でといいたいくらいだけど、この世のあらゆる出来事と、それにともなっている言葉がみんな一回ばらばらになって、美しく組み上げられる、そんなふうに思う、飲み屋の会話とか、学校の先生の話とか、元カレのこととか、過去にあった出来事、文学、辞書から無作為に拾ってきた言葉、なんでもところかまわず、節操ないくらいに見えるけど、でも本当はものすごい節制のもとにつくられている、だって宇宙って、そういうものでしょう。

わたしはただのひとつの記号にすぎないのだけれど
わたしは時々他の数や記号と一緒にされて
一度も訪ねたこともない場所で
思いもしたことのない力でもって変形され
はじめて出くわす相に出現する。
わたしを、それまでのわたしでなかったものにする
その変形の力と、その力の場は
わたしが変形されているあいだにおいては
わたしと一体になっているのだが、
しばらくすると
ふっと、力が抜けて
わたしのもとから
立ち去るのである。

「数式の庭。―前篇―」より

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