私の好きな詩人 第35回 – エドガー・アラン・ポー - 中本道代

 好きな詩人は、とても一人には決められない。萩原朔太郎、宮澤賢治、立原道造、左川ちか、リルケ、ボードレール、エミリー・ディキンソン、シルヴィア・プラス等、それに折口信夫や式子内親王の短歌にもとても惹かれてきた。

その中で、詩を書く私に一番深く影響を与えた詩人は萩原朔太郎だと思う。初めて朔太郎を読んだ十代後半のころは、環境の中で本当に病んでいた。それは他人にはわからないことだったし、自分自身でも明確に認識することができず言語化できない病んだ意識(朔太郎風に言えば霊魂)を、言葉による作品世界として可視のものにしているのが、朔太郎の詩だった。それは本当に、震撼するような体験だった。

 だがここで書こうとしているのは萩原朔太郎ではない。ここでは、朔太郎にも大きな影響を与えたエドガー・アラン・ポーについて書きたいと思う。朔太郎には「死霊の女」というテーマがある。死んだ恋人への思いを死霊との逢い引きという形で現わす方法は、ポーから流れてきているのではないか。そして、私も今このテーマに興味を持っているからだ。

 2009年がポーの生誕200年だった。ボストンで旅役者の両親のもとに生まれ、富裕な南部の家庭で養育され、イギリスでも教育を受けるがやがて養家を出奔して軍隊に入る。生い立ちのこのような体験の振幅が、ポーの文学世界の驚異的な豊かさを齎す一助になったのかもしれない。軍隊生活の後、各地を転々としながら雑誌編集に携わるとともに自らの筆で小説も詩も評論も書いた。短編小説も推理小説もポーが創始したジャンルであり、新しいメディアであった雑誌の要請に応えるものでもあった。過度の飲酒癖があり、四十歳の時路上で昏倒して三日後に死亡した。

 ポーには、「美女再生譚」や「死美人」と言うべき作品群がある。短編では『アッシャー家の崩壊』『リジイア』『モレラ』等、詩では「ユラリウム」や「アナベル・リイ」等。ポーの生母も妻も非常に若くして亡くなっている。写真を見ると二人とも立ち昇る春の空気のようにいかにも若く可憐である。ポーが「ユラリウム」や「アナベル・リイ」で浮かび上がらせたのは、うらうらと若い母や妻のまぼろしなのだろうか。そこには「若くして死ぬ」ということの、死ぬ側も死なれる側も何としても断ち切ることのできない強い思いがある。

 肉体が死ぬことは事実としてあるが、魂はどうなのか。人と人との間に確かにあった「思い」という精神エネルギーはどこへ行くのか。愛する対象の死は、愛の死ではない。愛が生き残る故に死はいつまでも神秘であり、謎として人を引きつける。この神秘こそが人の命をひたひたと潤しているものなのだ。ポーには、そしてポーの時代の精神にはこのような神秘が豊かにいだかれていた。

 最後に、新潮文庫『ポー詩集』の訳者阿部保氏の文章がポーの詩の世界の真髄をあらわしていると思うので紹介したい。

「それはポーの作品を包む、あの果しれない寂寥の感である。一八四〇年代の、アメリカ大陸の、いだいていた深い孤独寂寥の思いである。くらい広漠としたアメリカの文明のなかに咲いた、一輪の不思議な花。/我々が、ポーの詩篇を読むならば、そのかみのアメリカの洩らした不思議なる哀音を聞くことが出来るであろう。」

ユラリウム

空は灰色にくすんでいた、
  木の葉は縐より萎れ――
  木の葉はすがれ萎れていた。
私のいつとも記憶にない頃の
  淋しい十月の夜であった。
ウイアの霧に朧の中央地帯、
  オウバアのほの暗い湖水のほとり――
ウイアの鬼のうろつくという森林地、
  オウバアのじめじめとした山湖のもとであった。
 
(中略)
 
ふたりの語らいはしめやかに静か、
  しかし我らの思想はしびれ萎れ――
  我らの思い出は頼りなく萎れていた。――
といえば、我らはその月の十月であるのも知らず、
  また我らはその年のその夜とも心にかけず
  (ああ、その年のあらゆる夜のその夜よ)
 
(中略)
 
しかしサイキィはその指をあげて
  語った――「悲しくも、この星を私は信じない。――
  その蒼白を私は怪しくも信じない――
ああ、急げよ――ああ、我らは躊躇うまい。
ああ、逃げよ――我らは逃れよう、逃れねばならぬ故。」
恐れて女は語った、地に曳く程に
  その翼を垂れ、
その羽が地に曳く程に
  悲しげに地に曳く程にその羽を垂れ――
  身悶えて咽び泣いた。
 
私は答えた――「これは夢想に過ぎない。
  我らはこの震える光によって進もう。
  我らはこの透明な光を浴びよう。
その巫女めいた壮麗は
  今宵、希望と美に輝いている。
  見よ――それは、夜もすがら、天にゆらめいている。
(中略)
 
か様に私はサイキィを宥めて接吻た。
  また彼女を陰鬱より誘い出し、
  女の躊躇と陰鬱にも打ちかった。
そして我らが並木の果へ辿りゆけば、
  裏の戸故に止められた――
  銘をきざんだ戸のために、
そこで私は言った――「妹よ、何と記せる、
この銘をきざんだ戸の上に。」
  女は答えた――「ユラリウム――ユラリウム――
  これはあなたの今は亡いユラリウムの奥津城処。」
 
それから私の心は灰色にくすんできた
  縐より萎れた木の葉のように――
すがれ萎れた木の葉のように、
そこで私は叫んだ――「確かに十月の
  去年のこの宵であった
  私が旅したのは――このあたり旅したのは――
  私がこのあたりに恐ろしい重荷を運んできたのは。
  あの年のあらゆる夜のこの夜に、
  ああ、何の魔が私をこのあたりに誘うたか。
今、私にはよく分る、オウバアのこのほの暗い湖水――
  ウイアの霧に朧の中央地帯――
今、私にはよく分る、オウバアのこのじめじめとした山湖、
  ウイアのこの鬼のうろつくという森林地。」

(阿部保訳)

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