わたしの好きな詩人 第42回 – 吉田加南子 – 井上法子


 
ひとみのない 
目 
 

 
いいえ 
目ざめています 
 

 
じぶんのなかで立ってる 
 

 
わたしを傷として持つもの 
 

 
わたしの痛さ 
 
誰から見られているための?

(「見ること / 闇が光となるまで Ⅰ」より)

 バンジージャンプをするような気持ちで、詩集をひらくときがある。
 天才の威脅に身をさらしたいわけでも、何かのクッションとして比喩を求めているわけでもない。ダイヴのような、たとえば身をささげること(「献身」と「滅私」をおなじ意味では捉えないでほしい)と釣り合うくらいの安全性をもつものや、数や韻律にとらわれない他人の言葉が欲しいとき。ひとことでこころを浄化させてくれるような言葉が必要だと感じたとき。真実に対して酔っ払いたくないとき。

匂いという
 

 

 
わたしは囲まれているのだとおもいます

(「見ること / 闇が光となるまで Ⅴ」より)

 雰囲気というものを、はじめて意識した。
 改行。ま。空白。ひとつひとつの言葉の強度をうたがいたくなるようなそれらの配置。わたしが吉田加南子氏の詩と出会ったのは高校生のとき、〝第二芸術〟や〝奴隷の韻律〟と勝手に闘っているつもりになって、前衛短歌に傾倒しているころだった。うわべだけを掬ってよくよく勉強もしていなかったので、良かれあしかれ難解こそが至高のもの、などとおもっていたし、もっと端的に云うと、わたしのせかいには「短歌」しかなかった。

率直で、かつ思慮ぶかく。雰囲気まさりのようでいてとても計画的。純粋であり露悪的であり、吉田加南子氏が自身の詩のなかで表現しようとしているものは、当時のわたしにとって殆ど禁忌だと考えていたことのようだったし、またそれゆえにあこがれた。そういった「卑怯」な言葉たちの羅列にひどくこころ動かされ、詩の中の空白に飛びこむように陶酔した。


 
光が届いているところ 
 
それも闇ですか 

 
光が届いていても 
 
闇なのです 
 
閉じている 
 

 
闇と光の縫い目 
 
でも 
ほどきかえしながら

(「見ること / 闇が光となるまで Ⅵ」より)

 やさしさを一回りして難解なものへの恣意的な読みはたいていの場合、ためらう。しかしながら吉田加南子氏のあやつる言葉は、なんだか無責任ですがすがしいのだ。解釈をまるでためらわない含意たちが、其処らじゅうに散りばめられているようにおもえる。

 好きなものやひとについて考えるのはむつかしい。そのために必要なものが多すぎておびえたくなる。たとえば、「その〝もの〟・〝ひと〟たちの生み出す、良い要素ともわるい要素ともずっと一緒に居られる、居たって平気」という、そこはかとない愛。もしくは、「その〝もの〟・〝ひと〟たちのことなら何だってゆるせるわ」という、こころ穏やかな許容。
わたしがそれらにおびえることなく、こころをゆるし、身を添えることのできる数すくないものが、詩人吉田加南子氏の言葉だ。

(引用:吉田加南子 定本『闇』より「見ること / 闇が光となるまで」思潮社) 

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