私の好きな詩人 第61回 – 吉増剛造 – 来住野恵子

吉増剛造『黄金詩篇』 
 
 
海から帰って 
ダレカガ呼ンデイル 
窓がひらいた 
青い青い断片の 
アレワ人間カ 
望みはなんだ 
血色して 
カンカラがころがる 
宇宙を私有する 
心臓の音 
そして創世記  
 
星ちった、歌だ 
濡れた飛び火の原罪 
ふたたび波頭に浮ぶ 
命は夢 
振り返ってはいけない 
ここは明るい 
脳葉ひらひら舞っている 
こうなりゃ風さ 
全部さわれる 
 
日輪は停止した 
薄氷を踏んで 
走ル 
炎の船の 
この幻影こそ意志 
断じて耳はかさぬ 
音という音のなか 
ふっと 
0(ゼロ)のようにすべる 
黄金詩篇

 吉増剛造『黄金詩篇』に収められた詩句から、敬愛を込めて、私にとって初のパスティシュを試みた。こんなことをしていいのか、正直どきどきしている。遊びをせんとや生まれけん・・・だが、遊びは無償でありながら、時にどこか原罪の匂いがする。

 現代詩の詩集の中で唯一冊選ぶとしたら、迷わず私は『黄金詩篇』を挙げる。この詩集の放つ地獄を反転させるような強烈な光にずっと魅せられてきた。ベートーヴェンのシンフォニーに譬えるなら真夏の第三、わけても滔々たる大河のごとき第一楽章だろう。カオスがカオスのまま拡散し、星雲状に渦巻いている世界。見えない名付けられない中心から、恐るべき「宗教的爆音」(「変身」)がきこえてくる。

 二十年前、LAに暮らしていたとき、夜明け前の魂が吸い込まれるような深い群青に誘われ、毎日飽かず散歩に出かけた。一時間ほど歩いて帰ってきてシャワーを浴びると、ちょうど痛いような朝陽が射し込んでくる。大きな分厚いバスタオルにくるまって『黄金詩篇』の一、二篇を朗誦するのが日課だった。「純白・透明」から「黄金」へ疾走する詩の言葉は、沙漠なす南カリフォルニアの硬く鋭い光とぶつかりあい、異邦に生きる私の精神(こころ)をスワロフスキー・ストラスのような虹色の霊感でみたした。それは無上のエネルギー・チャージ、真新しい一日の封を切る聖なる儀式であった。

 砕け散る激烈なパッションの波間にいいようのない優しさナイーヴさが見え隠れする『黄金詩篇』は、一見あっぱれな益荒男(ますらを)ぶりである。しかしどこで何をしていようと、生きるとは男女の別なく本質的に不断の闘いだ。だから仮に「貴女ワ帰レ」(「渋谷で夜明けまで」)といわれても簡単には帰れない。「神の形影を嵐のように巻きながら世界をゆく」(「花・乱調子」)手弱女(たおやめ)の私もまた、生ある限り「動詞しか信用しない」(「渋谷で夜明けまで」)。

 「I(アイ)感覚」(「空を包装する」)とは、宇宙(じぶん)の真ん中に、暗黒に怯まず無明に耐え抜いて立つことだと思う。そうして「天地無用」(「素顔」)という詩人の言葉に従って、i(アイ)をひっくり返せば!(感嘆符)になる。『黄金詩篇』の時空に鏤められた可視不可視の!をたいせつな花束のように胸に抱いて、私は夜明けの地上(ウェスト・コースト)から歩き出したのだ。重力から解かれたi(アイ)たち、決して言葉にはならない無数の!たちの、絶対自由の推力に滅法突き動かされながら。

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