私の好きな詩人 第65回 – 会田綱雄 – 廿楽順治

 会田綱雄と言えば、やはり「伝説」である。この詩は色々な所で引用されるし、確か教科書にも採用されている。でも、ここで「好きな」詩人として言及するのは、「伝説」を含む第一詩集『鹹湖』の会田綱雄ではなく、後期の、とりわけ詩集『遺言』(一九七七年・青土社)以後の会田綱雄である。これらは現代詩文庫版『会田綱雄詩集』(思潮社)には収録されていない。かつて読売文学賞を受賞した『遺言』だが、現在一般にはほとんど読まれていないと思うので、特にこれを推したい、という気持ちが強い。現代詩だって、名人芸のような語りがあってけっこう面白いんだ、と言いたいのである。

くるっとおしりをまくって 
しゃがんだなりの 
妙に自然な姿勢でネ 
さびしく 
しいんとなった先生がいて 
僕に気がつくと 
ふりむいて 
にんまり笑った 
「先生 なにをしてるんです?」 
「考えるひと」 
「なにを考えてるんです?」 
「うんこ?」 
「それがどうしたっていうんです?」 
「出ねえんだ」 
「先生は死んだひとなんですよ 
考えたって 
力んだって 
出るもんですか」 
「ウン 屁も出ねえんだ」 
 
(「六道の辻で 金子光晴先生に」)

 こういう書き方については、人によっては不真面目だ、おまえは世界とどう対峙してるんだ、と怒る人もいるだろう。それはそれでよいと思う。でも、詩なんだから何が起こってもよい、という考え方もある。現代詩だからといって、いつも最前線を旗振って走らなければならない、と思い込むのは、一種の選民思想みたいなものである。詩は「おれを読め」という暴力と紙一重で、その危うさが面白みではあるけれども、それとは全く違う志向を平気で飲みこんでいる鷹揚さがなければ、ジャンルとしての先行きは高が知れている。

「〈詩〉というかたちにとらわれない 
というよりも 
〈詩〉という何か特殊なものを書くんだという 
ヘンに窮屈な姿勢をとらないこと 
要するに 
〈詩〉を無視すること 
あるいは 
〈詩〉を拒絶することから〈詩〉を書きはじめること」 
と 
スケッチブックの一葉に 
ボールペンの青で書いてあって 
そのわきに 
2Bの鉛筆で 
「おおげさにいうと 
そのほかに 
〈詩〉を復活させる術はないし 
同時にその術が 
〈人間〉を復活させる術につながらなければダメだ」 
と 
書き足してある 
 

(「不整脈」)

 人によっては、これじゃ散文とか随筆ではないか、と思うかもしれないが、会田綱雄の場合、ぎりぎりのところでそれを逸れていく。少し長めの詩が多いので、全編引用できないのが悔しい。部分的な引用が逆に、会田の絶妙な語りを損なって伝えてしまう気がして、怖い。
 最近、この会田綱雄のマネをして下揃えの改行詩を書いているが、どうもこの域に届かない。

※引用した詩は、原文では行頭が下揃えとなっている。

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