短歌時評 第2回 生沼義朗

あたらしい流れあるいはあたらしいガラパゴス現象 生沼義朗

 前回、若い世代による紙媒体の同人誌の鼻息が荒いと書いたが、言い方が不正確であった。正しくは、学生短歌会所属とそのOBOGを中心にした、概ね1980年生まれ以降の世代の鼻息が荒い。

 根拠はまず、ここ数年京大短歌会早稲田短歌会の二つの老舗学生短歌会から、総合誌新人賞の受賞者や次席を続々と出ていることだ。具体的には、京大から光森裕樹=OBと大森静佳が角川短歌賞、吉岡太朗(京都文教大短歌会にも所属)=OBと吉田竜宇(りゅう)=OBが短歌研究新人賞、早稲田から田口綾子と山崎聡子=OGが短歌研究新人賞、平岡直子が歌壇賞次席といった具合。

 また06年に東京大学本郷短歌会、09年に東京外語大俳句・短歌会 、10年末に大阪大学短歌会と新たな学生短歌会がそれぞれ設立され、東大本郷の小原奈美が角川短歌賞次席に入っている。

 さらに「短歌」(角川学芸出版)4月号の特集「若手歌人たちは今」に、京大短歌から田中濯(あろう)=OB、光森、吉岡、大森、早稲田短歌から永井祐=OB、堂園昌彦=OB、平岡、東大本郷短歌から小原と16名中8名が原稿を寄せ、「歌壇」(本阿弥書店)5月号の特集「私の注目する歌人―ブレイクしそうな歌人たち」でも栗木京子、田中槐、水原紫苑が、それぞれ小原、望月裕二郎(早稲田短歌OB)、平岡の3人を取り上げている。彼等彼女等がもはや新しい潮流であることは疑う余地がない。

 そうしたなか、昨年11月に東京外語大俳句・短歌会が機関誌「外大短歌」を創刊。今年3月には「早稲田短歌」と「京大短歌」の最新号が相次いで出された。何首か抄く。

  • 「外大短歌」創刊号より

スカートを頭の方から脱いでみた 手はスカートを初めてはいた   市川きつね

旭光に窓の指紋はぎらぎらとソドムの灯火にまがへて虚し   本馬南朋

道端にひとひらふれるてふの翅の窓に変はりて透かす地の底     藤松健介

海流にかすかにまざるファの音の、音を吸っては膨らむ船の、    千種創一

  • 「早稲田短歌」40号より

闇色を呑み込むように羊羹を味わうことに意味がある朝   藤本未奈子

ほっといた鍋を洗って拭くときのわけのわからん明るさのこと   山階 基

食べるとはまず混ぜること スプーンを順手に持てばひとのほほえむ     板垣志穂

湖畔から遠のくほどに高速の雪はあかるくつめたく光る   藤森佳鈴

ブリトニー・スピアーズってブリちゃんて呼ばれてなんで解脱しないの   長森洋平

にいさんの、下手すれば消えてしまうほどの余地ある朝ごはんでいいよ   新上達也

あたしたちもろいね あたしたちこわいね スカートはあんまり強くないね   山中千瀬

ポストの赤もぼくのせゐかよ短歌とは追伸だけで届いた手紙     吉田隼人

丁字路に起こる人死(ひとじ)に てらてらとカーブミラーに宿る戦後は   大塚誠也

  • 「京大短歌」17号より

カナリアは僕のことだと言うように部室のことをボックスと呼ぶ   廣野翔一

街じゅうの知ってることを埋め尽くす雪の狭間に足をとられる    小林朗人

あたためたミルクの上の皮をむき母語を失いゆく日を思う      延 紀代子

たましひはいづこに在りや一日(いちじつ)の緑茶放置の底の濃縮   薮内亮輔

言い差して言い差して綻びそびれ唇はボタンホールのようだ   笠木 拓

 総体的に掲載作品はいかにも青春詠で、現在の口語短歌の流れまっただなかという印象だ。ある言葉と言葉をぶつけることによって、あらたな景色や概念を立ち上げようとする志向をまったく否定しない。だがこの作風は、ひとつひとつの言葉のテンションを相当高い水位で保たないと即座に底が割れる危険を常にはらむ。綱渡りの成功率は、正直高くない。一方で、オーソドックスな技法や嘱目から歌を立ち上げているものも見られる。ただ、どのようなメカニズムでこうした作品が出来上がるのか、正直作者にもまだ理解できてないのではと思える作品も散見された。先行者の影響も率直に感じるし、既視感もある。だが若書きゆえ当然とも言えるから、ここではひとまず措く。
注目すべきは、名前や歌を挙げた30名中22名がいわゆる結社に属した経験がないことだ。何も今に始まったことではない。たとえば04年に、石川美南や五島諭らが創刊した同人誌「pool」も学生短歌会のOBOGが多く、多くが結社を経由していない。結果論かもしれないが、今の学生短歌会隆盛の源流になっている。さらに京大短歌や早稲田短歌のメンバーやOBOG間を横断する形で、「町」や「dagger‡」といった同人誌も生まれた。結社を経由しない人が多い点では同様だ。こうした流れはまず間違いなく、次世代の短歌の一角となる。

 これらの現象から見えるのは、結社の役割の限界と変容だ。もちろんネット環境の発達と同人誌コストが以前より廉価になったことが影響している。結社の制度疲労により機能が落ちたこともあるだろうが、IT技術の発達とデフレによって、従来の結社誌に替わる媒体ができる余地が生じてきたと言える。

 残念なのは、学生短歌会の機関誌の多くが年1回程度の不定期刊ということだ。先に挙げた3誌を読むと、まだまだ習作段階のメンバーも多い。たしかにマンパワーや経済的事情を考えれば、手弁当の同人誌活動は年2回刊くらいが精一杯だろう。聞くところによると、早稲田短歌会や阪大短歌会は歌会を週1回行っているという。そのインプット(歌会・研究会)の活発さに比して、アウトプット(活字による作品発表の場)が少ない。その不均衡をウェブマガジンやメールマガジンで補えないか。

 思えば結社誌の多くが月刊なのは、「業余の吟」においておそらくもっとも理にかなった頻度なのだろう。新人ほど発表の場は多い方がいい。ネットメディアの利点は紙媒体の弱点の補完ができるところだ。まだ機関誌紙を持たず、人数もそれほど多くないであろう東大本郷短歌会や阪大短歌会こそ、新しいメディアを活用しない手はない。

 ここで思い出すのは、現在活動を休止しているらしい國學院大學短歌研究会と、東北大学短歌会である。特に國學院は早稲田と並ぶ老舗の一角、復活を期待したい。なお各学生短歌会は基本的にその大学の学生が多いが、そこに在学してなくても学生・院生であれば入会でき、実際そういう人も少なくないことを念のためつけ加えておく。

 さて話は前後するが、学生短歌会3誌から作品を抄いた18名は現役の大学生や院生で、最初に挙げた12名の後続世代である。つまり18歳から25、6歳くらいまでの若者だ。ということは概ね85年以降生まれだろう。この世代が学生短歌会で研鑽し、まとまって頭角を現すことはもちろん喜ぶべきことである。しかし彼等彼女等の作品を読むと、よく勉強はしているものの、チャンネルがみんなほぼ同一というか、同じコードを使わないと読めない、むしろ外れることを怖がっているようにも見える。この世代が多く集うガルマン歌会などでもこれは感じる。

 かつて結社の利点は、その幅の広さだった。熟年世代と若年世代が(比率に差があるとはいえ)、またいろいろな職業や人生経験を持つ人が集い、入り混じって研鑽することに結社組織の強みと意義があった。だが先述の理由で結社が結果的に求心力を失い、結社に属しない若年層が増えた。ということは結社の新陳代謝は進まない。自然、多くの結社で高齢化が進み、頭の痛い問題になっている。結社が熟年世代によってガラパゴス化するように、若年世代でもガラパゴス現象が起きるのではという危惧が拭えない。この問題をどう解決するか。結社がもはやその処方箋にならないのは仕方ないとしても、何かシャープな方策はないものか。筆者にも現時点で有効な解決策は思い当たらないが、一度各世代を集めてシンポジウムでもしてみようか。

執筆者紹介

生沼義朗(おいぬま・よしあき)

1975年、東京都新宿区生まれ。1993年、作歌開始。現在、「短歌人」[sai] 各同人。

歌集に『水は襤褸に』(ながらみ書房・第9回日本歌人クラブ新人賞)、共著に『現代短歌最前線 新響十人』(北溟社)。

活動状況については祭都 生沼義朗短歌エリア参照のこと。

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