短歌時評 第3回 松野志保

三月十一日以後    松野志保

 久しぶりに誰かに会えば、その時どこにいたのかという話になり、水を向けられれば、これからの防災や原発がどうあるべきかについて論じもする。しかし、詩の言葉はどうにもこうにも出てこない。三月十一日からそんな日々を過ごしている。

 もちろん、未曾有の災害を前にしてあふれる思いをすでに歌に託している人もいるだろうし、いずれ、数多くの震災の歌が作られ、世に出ていくことだろう。だが今は、ずっと以前に作られながら、震災以来、脳裏を離れないいくつかの歌と詩について書いておきたい。

さみだれにみだるるみどり原子力発電所は首都の中心に置け   塚本邦雄

 福島第一原発の事故が深刻さを増していく中で、この一首を思い浮かべた人も多かったのではないか。実際、この歌に言及しているブログも検索すればいくつか見つけることができる。

「さみだれ」「みだるる」「みどり」とたたみかけることで描かれた生命力あふれる五月の風景は、「原子力発電所」によって反転する。すると「さみだれにみだるるみどり」もまた、人間の手では制御しきれないものの象徴に見えてくる。

「原子力発電所は首都の中心に置け」とは塚本邦雄にしては乱暴にも思えるほどのストレートな表現だが、三月十一日以前に私たちが目をそらしていたものを容赦なく暴いている。事故が起きてしまった今、東京が原発からの距離によって守られていることは誰の目にも明らかだ。

掌(て)ににじむ二月の椿 ためらはず告げむ他者の死こそわれの盾   塚本邦雄

 そして盾として機能している距離は無人の野ではなく、そこにも人々の生活があった。塚本の作品にはしばしばこうした欺瞞への批判や嫌悪が色濃くにじみ出ているが、その容赦のなさは、今はむしろ救いにも感じられる。

 危機や滅びを予見する詩人のまなざしは次の一首にも感じられるだろう。

原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは   岡井隆

「たのしむ」と言いながらこれほど荒漠とした印象の歌を私は他に知らない。繁栄を享受しながら、その裏にある危機に慣れていくことへの危機感。こうした自覚を持ちながら生きていくことは苦しいだろうなと今、読み返してみても思う。

ことば、野にほろびてしづかなる秋を藁うつくしく陽に乾きたり   高野公彦

 実は震災直後から、心の中で呪文のように繰り返し唱えたのは一見、震災とはなんの関係もないこの一首だった。テレビの画面に映し出されていたのは野ではなく海辺、季節は秋ではなく早春であり、乾きつつあったのも藁ではなく泥と瓦礫という違いはあったが、言葉を失った状態を言葉で表現したとも言えるこの歌が、当時の心境にぴったりだったのだ。

 このように先人たちがすでに書き記していた危機感、喪失感を読み直しているうちに、ふいに歌の断片らしきものが降ってくることもあるにはある。ただ、それを五七五七七の形にしようとすると、妙に小ぎれいで場違いなものに思えてきてしまう。

 そして谷川俊太郎の「詩人の墓」の一節が脳裏をよぎるのだ。あるところにすばらしい詩を作る男がいて、ひとりの娘と恋に落ちる。詩人と娘は一緒に暮らし始めるのだが、娘は次第に違和感を覚え始める。

ある夕暮れ娘はわけもなく悲しくなって
男にすがっておんおん泣いた
その場で男は涙をたたえる詩を書いた
娘はそれを破り捨てた

男は悲しそうな顔をした
その顔を見ていっそう烈しく泣きながら娘は叫んだ
「何か言って詩じゃないことを
 なんでもいいから私に言って!」

 今は詩歌ではない言葉、さらには言葉以外のものを求めている人たちがいることを知りながら、それでもやむにやまれぬ思いがあれば歌は作られていくだろう。ただ、一つの枷、あるいは戒めとして「何か言って詩じゃないことを」というフレーズは頭の片隅に刻んでおきたい。

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