短歌時評 第7回 生沼義朗

声の柱をたてる 生沼義朗

 4月29日号の第1回短歌時評を読んで戴ければ分かることだが、筆者は先の東日本大震災について書いていない。他の時評執筆者は、その後の号も含めて多くの方が震災について何らかの形で触れていることを考えれば、完全に浮いているというか、まあ端的に空気の読めない人状態になってしまっているが、これは予想の範囲内だし、一応自分なりの考えがあった。

 時評の役割は何かを考えたとき、ある作品や事柄、さらに関連する言動について周囲の反応を観測し、俯瞰的に捉えることと考えている。そして反応が出揃うまでにある程度の時間は必要となる。

 このあたりが発行に一定の時間を要し、しかも月刊が基本のペースとなっている雑誌媒体の苦しいところである。この時評もタイミング的に出し遅れの証文になりつつあるのだろうが、やはりある程度の反応と経過を見てから、反応に対する反応つまり時評を書きたい気持ちが強かったので、こうした形となった。

 さてこれを書いている6月初頭の時点で震災から3カ月近く経ったが、ようやく雑誌媒体でも先の震災に対する、各歌人や各編集者の反応が出てきた。いちばん早く震災の反応を受け止めた新聞歌壇に始まり、結社誌、総合誌、あるいは歌人の個々のブログなど、この文章を書いている時点で相当数の震災詠が発表された。そしてもちろん、当面この状況は続くはずである。

 なかでも「歌壇」(本阿弥書店)6月号の「緊急特集・震災のうた―被災地からの発信」と、「短歌」(角川学芸出版)6月号の「震災復興祈念特集・希望のありか―東日本大震災のあとに」は奇しくも一対となる企画であった。

◆「歌壇」6月号特集より

夜の闇、寒さ、ひもじさをやや知りて二歳の息子が飲んでゐる水大口玲子
お母さん。お母さんどこ。焦れながら地割るる山を駆けてをりたり梶原さい子
何十機もヘリが頭上を飛ぶ日常 轟音はフラッシュバック引き寄す熊谷龍子
震災の直前の手紙届きたるあはれはるけき過去(すぎゆき)として佐藤通雅
六十五年の戦後をわれら凌ぎきて余生にあらぬ「災後」を生きむ中根 誠
いま声を上げねばならん ふるさとを失うわれの生きがいとして三原由起子

◆「短歌」6月号特集より

青空はたしかにそこにある筈でしかも曇りがうすくひろがる岡井 隆
動物園に被災せし河馬欲しかりき『ヨブ記』に叡智を讃へし河馬を辺見じゅん
わたしから言葉が叛く 断崖から身を剥がすように離れる大島史洋
ほんとうにとてもかなしい都市ガスで水を沸かしたあたたかいもの斉藤斎藤
黄のバナナの皮の半分までを剥く簡潔な東北のかたちとおもう駒田晶子
空振りの緊急地震速報の不協和音に冷める豚汁齋藤芳生

 「歌壇」は、かつて震災に罹災した経験のある6人のエッセイと、今度の東日本大震災で被災した各地に在住あるいは出身の12人による8首詠+エッセイの二本立て。「短歌」は坂井修一の論考と、26人による震災詠5首+コメントであった。人選は被災の有無というより、一線級の歌人を揃えた印象である。

 どちらの作品も読みごたえはあったが、「短歌」の特集の人選に違和感をもつ読者もいただろう。つまり、被害らしい被害を受けなかった人も震災詠をものしていいのか、という意味で。だがこの感情を突きつめてしまうと、より悲惨な体験をした方が作品として有利という図式にさえなりかねない。だが実際は、リアリティの問題なのだろう、「短歌」の特集でも読みながら付箋のついた作品を抄出したら、いわゆる東北3県在住あるいは出身歌人の作品が多かった。

 地震から派生した福島の原発事故は未だに先行きが見えず、ほとんどの日本人が不安に感じている。その不安を歌に刻むことは極めて自然な行為である。その作品化における生命線は、やはりどれだけ作者自身に引き寄せられるかだろう。詠う以上、クオリティは問われる。たしかに震災を自分に引き寄せる作業を経ることなく書かれたレベルの作品も歌会や結社誌などでは見られ、それは作品や態度を批判されても仕方ない。

 震災によって痛めた心を託すのに短歌は向いている。さらに言えば、小さな詩形ゆえに多くの人が敷居の高さなく想いを込めることができる。それは俳句も同様だろう(時事性における向き不向きはひとまずおく)。それゆえに新聞歌壇や俳壇が存在し、非常時にこそ十全にその機能と役割を果たしていると言っても過言ではない。

正直、「短歌」の特集に掲載された作品がいわゆる震災詠のどこに位置するかはわからないし、抄出したような歌が震災詠の総体を象徴しているとも思わない。

 結局、歌うという行為は、個々人の肉声の柱をたてることなのではないか。柱の色や形や高さは、場所あるいは声を発するそれぞれの属性によって違うのは当然だ。その柱を、ひとりでも多くの人がおのおのにたてることが歌をつくる人間に今できることなのではないか。というよりそれしかできないのかもしれない。

 そのすぐれた一例として盛岡在住の田中濯(たなかあろう)による30首詠「#save_iwate」(「短歌研究」6月号掲載)を挙げておきたい。ドキュメントとしてのあらゆる感情を帯びた肉声を持ちながらも作品のクオリティも高い、卓抜した一連であった。

海岸が海にうるおうまひるなり春のきざしも海に融けつつ田中 濯
アルコールばかり残され春の日にからっぽの店存在しおり
なんでもいいから陸前高田の情報を訊くツイートにリツイートできず
青森のりんごは来たる青森のりんごが来たるなによりはやく
節電の青森駅が容(い)れたるはあの日のまえのわずかな気配
二・二六の予感はないか東北の農村・漁村死にたまいたり
ツイッターでは、さわや書店が盛岡の司令塔だった
にんげんの営みとして本屋あり土曜日だけを休店にして
「失われた世代」のままでいたかったフクシマ祀る墓守われら

 本当は30首すべて引用した方がいいのだが、スペースの都合でそれができないのが申し訳ないくらい、間違いなく特筆に値する一連である。こうした作品を読むと、やはり体験に基づくリアリティに勝るものはないのかとも思う。作者読者双方とも、事実やそこに基づく体験や実感を錦の御旗にしてはならないのは当然だが、ではその前に現実に立たされたとき、誰もが立ち尽くさざるを得ない厳粛さが確実に存在する。その狭間で、悩む。

 かく言う筆者も「短歌」5月号に出した作品7首はすべて震災の歌だった。別に震災詠でという依頼があった訳ではない。やむにやまれぬと言うと大げさだし、もちろん田中の切実さとは比較になるべくもないが、それしか作品ができなかったのは事実である。

 今後も震災や原発にまつわる作品は続々と各媒体で発表されるはずだ。祈りを受け止めるか、感情の捌け口になるか、社会への刃となるか。とにかく今、短歌という器が試されている。その経緯を、筆者も自分の声を出しながら、見つづけることにする。

執筆者紹介

生沼義朗(おいぬま・よしあき)

1975年、東京都新宿区生まれ。1993年、作歌開始。現在、「短歌人」[sai] 各同人。

歌集に『水は襤褸に』(ながらみ書房・第9回日本歌人クラブ新人賞)、共著に『現代短歌最前線 新響十人』(北溟社)。

活動状況については祭都 生沼義朗短歌エリア参照のこと。

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One Response to “短歌時評 第7回 生沼義朗”


  1. あがさクリスマス
    on 7月 2nd, 2011
    @

    今後とも被災地をよろしくお願いいたします。私も未熟ながら愛の短歌100首や詩を詠んおります。よろしくお願いいたします。

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