短歌時評 第9回 斎藤寛

作意と思想 斎藤寛

「短歌研究」5月号の短歌時評で、都築直子は「井泉」誌上(35号、36号)での彦坂美喜子と小池光のやりとりを取り上げていた。小池の《生徒らが校歌うたはぬゆゑよしを知るか同じ理由に唱はざるのみ》(『静物』)という歌から、学校という場で校歌をも国歌をも「唱はない」という小池の意思表示を彦坂が読み取ったのに対して、小池から「誤解があります」という私信が彦坂宛にあり、それを読んだ彦坂は小池の承諾を得てその私信の全文を誌面に公開したうえで、全面降伏の態で自らの非を認めたのだが、作者がそのようにして「誤解があります」という発言を公にする(この場合は私信の誌上掲載を承諾する)のは是か非か、という問いを都築は設定し、「作品は誤読されるのがあたりまえであって、それを受け入れる用意のない作者は作品を公にしないほうがいい」という小気味の良い啖呵をもって結語としている。

僕はこの結語に関する限り都築の意見に賛同する。歌会のような場でも、最後に「作者自解」が示されて、それがニヤリーイコール正しい解釈、のようにみなされがちな空気が生じたりすると、それは違うんじゃないか? と思うことがある。ただしこの《生徒らが・・・》の歌に限って言えば、かつてそれを読んだ時に、「生徒たちが[卒業式などで]校歌を歌わない理由を知ってるかい? 君が代を歌わないのとおんなじ理由さ。つまり、あんなカッタルイ歌の歌詞なんて覚えてねーよ、っていう、それだけのことさ」という歌なのだろうと読んで、さもありなんと思ったのだった。「唱はない」という意思表示の歌だ、という彦坂の読みには、首を傾げるところがあった。

5月15日の短歌人東京歌会の研究会で、レポーターの花鳥佰は当日のレポートの第2部として、「『誤解』か『誤読』か-一首を読むとき、歌集を読むとき」というタイトルでこの彦坂と小池のやりとり、および都築の時評を取り上げ、都築および都築がその時評で引いている岩井謙一や江田浩司は、問題を「一首の読み」の如何に設定した上で作者が「誤解があります」と公に発言することへの賛否(岩井、江田は賛、都築は否)を述べているが(ただし江田は「一首」と明言していないが文脈からそう推測される)、このケースにおいては、《生徒らが・・・》を含む「感想」というタイトルの一連30首を通読したとき、特にその4、5、6首目、とりわけ6首目(《民衆は善、為政者は悪といふあつけなき前提にすがり寄り来ぬ》)を読めば、戦後民主主義に対する小池のスタンスを彦坂が「誤解」していることは明らかである旨を述べ、「一連、一冊を『誤解して』読まれたときに作者はどうするか、というのが改めて問題になる」という問題提起を行なったのだった。

その研究会の場ではさまざまな意見が出されたのだが(小池は出席していなかった)、その中で、蒔田さくら子が、「もちろん歌が作者の作意通りに読まれないことはたくさんあるし、それについて作者がいちいちクレームを付けるなどというのは論外のことだ、ただ、この小池の歌のケースは、歌の読みというよりは自らの思想的立場がどう理解されるかということにかかわる問題であって、それゆえに小池もひとこと言ったのだろう、それを歌の作意の理解如何の問題に横すべりさせてしまうのはまずい」という趣旨の発言をしたのがいたく印象に残った。一連、一冊まるごとの「誤解」の場合は如何、という花鳥の問題提起は、なお検討される必要があると思うが、ここでは以下《生徒らが・・・》の一首に絞ってもう少し考えてみたい。

生徒らが校歌うたはぬゆゑよしを知るか同じ理由に唱はざるのみ

「井泉」36号の彦坂の稿に掲載されている小池からの私信によれば、この歌は「主語は全部生徒で、生徒たちは校歌をちっとも歌わない、その理由を各位はご存じか。同じ理由によって生徒たちは国歌も歌わないのである、ということです。/その理由は、愛国心がないとかいう次元のことではなく、みんなで一緒に声を合わせてひとつの歌を歌うなんて『恥ずかしい』という感覚です」とのことである。小池は、当時、埼玉県のある私立高校の教員だった。今どきの高校生ならいかにもそんな感じだろう、と納得する。

この彦坂の稿(「井泉」36号)を読んで僕が問題だと思ったのは、彦坂が小池からの私信を引いた後、直ちに、「このように小池氏が自ら言われているのであるから、前号の私の解釈は誤りであると陳謝し、訂正しておかねばならない」と述べている点である。これでは都築ならずとも、彦坂は「歌の正しい読み方」の決定権は作者自身にあると考えているのだろうか? それは違うだろう、と言いたくなってしまう。歌会で作者自らが作意を述べたとたんに、「あ、そういうつもりで詠まれたんですか。それじゃあ私の読み方は間違っていましたね」と言ってしまうのと同じだ。一首の歌にはただ一つの正しい解釈があり、それは常に作者が持っている、というような、歌の読みを非常に貧しくする磁場が成り立ってしまう。これは大変にまずいことだ。

彦坂が小池からの私信を読んで自らの解釈に誤りがあったことを自覚したのなら、どこをどのように誤ったのかについて精緻に省みる文章をこそ綴るべきであっただろうと僕は思うが、そのあたりのことは全く素通りされてしまっている。なぜ《生徒らが・・・》を意思表示の歌として彦坂は読んだのだろうか。そのように読むためには、「生徒ら」が卒業式などに臨むにあたって、アンチ校歌・アンチ国歌の立場で理論武装を固め、それを団結して決行している、というような相当に珍しいことを想定する必要がある。そして、もう一点、ここがきわめて重要なことなのだが、この歌を「意思表示」の歌として読むためには、結句の「のみ」をわざと読み落とさなければならない。「・・・っていうだけのことさ」という口吻からは、仮に「唱はざるのみ」の主語は作者だと受け取ったとしても、確固たる「意思表示」の類を読み取ることはできないはずだ。これは明らかに彦坂の読み落としであり、一首の中に読み落とした箇所のある解釈は、さまざまな解釈群の中のひとつとして存在する権利を持たない。

ここで、先の蒔田の発言を改めて想起して小池の私信を読み直してみると、なるほど小池は、彦坂には(戦後民主主義に対する小池のスタンスについて)「誤解がある」ということを伝えるべくその私信を記しており、彦坂が《生徒らが・・・》の一首の読み方を間違ったゆえんに分け入ってゆくような、“歌の読み方”の問題域に言及することは極力避けているように思える。しかし、小池からこのような私信を受け取った彦坂の側は、ひたすらおそれいってしまうのではなく、先ずもって自らの読みを再点検し、そのどこにどのような問題があったのかを自ら切開して小池への応答とすべきだったのではないだろうか。場合によっては、小池の作意はそうだったとしても私は別様の読みとしてこのように読んだ、私のような読みも作者の作意とは異なるもうひとつの読みとして成り立ってよいはずだ、と彦坂が主張する選択肢も、可能性としては存在したはずなのであるから。

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