短歌時評 第16回 清水亞彦

本然を遂げる、あるいは長歌のこと

 3月の震災以来、ざわざわとした心持ちが収まらないまま、8月を迎えてしまった。もちろん、直接の被災地域に住む身ならば、ザワザワとした気分どころではなく、一日を終えるに手一杯な筈だから、取り立てていうのさえ、愚かしいことなのだが。

 こんな気分が続くのは、生活の不具合の所為ばかりではなく、ふだんは殆ど見ることのないテレヴィを見、あまり得意とはいえない系統の本を、読みつづけたからかもしれない。「文藝春秋」「中央公論」「世界」の各5月号、広瀬隆『原子炉時限爆弾』、山本七平『日本人と原子力』、佐藤栄佐久『知事抹殺』、高木仁三郎『プルトニウムの恐怖』、川村湊『福島原発人災記』、開沼博『フクシマ論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』… 目の前で起こっているコトの背景に、余りに無知であるのは、やっぱり良くないだろう….そう考えてのささやかな行為だったが、「原子力」と「原発産業」の有りようについて、いくばくかの知識を得ると同時に、八方ふさがりのイヤな感じは、どんどん増していくばかりだった。

 良識的に何事かを言う、それは基本として守るべきことだ。組織・体制や報道に対する批判も、大方が頷くものだろう。種々の具体的数値の、意味について知っておくのは大切なことに違いない。けれども、共有できるのはその辺りまで。

 個々の暮らしは、災害の前も後も、やっぱり個々の暮らしとして、百人百様に続くもので、それは被災地域の方だろうが、その他の地域の方だろうが、「絶対的に」個々人のものだ。一国のエネルギー事情を、あるいは未曾有の災害を、どのように自身の体験とするのか、どのように自身の未来に繋ぐか。脱原発の当否、ボランティアと義捐の継続、賠償責任(裁判)のゆくたて、市場経済(過信)への問い直し、被災地ファンド、国内移住…. 自身の「本然」が奈辺にあるかで、態度も選択も変わってくる。

 もちろん、包括的に論ずる為には、そうした個人の本然などは置き去りにした上で、言葉を紡いでいかなくてはならない。啓蒙書やジャーナルの言葉は、そうして、正しければ正しいだけ、読み手の心を波立たせる。膨大な労力をかけた取材のありように感謝しつつも、それが、結局は「個人」を救うことも、力づけることもない、言葉の束であることを再認識するからである。

 
水を見てよろめき寄れる老いし人手のわななきて茶碗の持てぬ
新聞紙腰にまとへるまはだかの女あゆめり眼に人を見ぬ
あかり消せる町は真暗なり鬨の声近く東の小路におこる
死ねる子を箱にをさめて親の名をねんごろに書きて路に棄ててあり
輓ける車空(そら)にありと見正気づけば身は屋根の上にゐしといふひと
 

 震災以降の紙誌面やブログで、窪田空穂の引用を、眼にすることが多かった。歌集『鏡葉』所載の関東大震災の折りの作品。甥の安否への気づかいと、「見ずはあり難き」という心情から、被災地東京を歩きまわって詠まれた、50首の群作である。

 引用はおおむね、過去にもこんな作品があった、というニュートラルな紹介だったが、「記録」の重要性をコメントしながらの紹介もあり、また少数だったが、今回の震災を詠む際の一種の「お手本」を、そこに見ようとするものもあった。

 これらは、たしかに個人が発した「文学」の言葉で書かれており、統辞の手堅さを見習うなら、平成の震災を詠むための「いいお手本」となるのかもしれない。また、作家の眼や耳を通した「記録」の好例として、位置付けるのも間違いではないとも思う。けれども、こうした震災詠のような、素材性の強い作品ばかりが、空穂の名前と結び付けて記憶されてしまうとするなら、ちょっとマズイのではないか、というより、勿体ないのではないか、と、そんな感想も持ったのである。

 空穂作品の全体から見るなら、一群の震災詠は、修辞においては極めてシンプル。同じ「記録性」でも、雑多な日常を選り分けることなく、都度都度、自身の胸底を覗き込んでするような、空穂独行の「汎記録性」からは、幾分隔たったところで成った作品群と思われる。おそらくそれは、甥の無事も早い段階で判り、その後の作歌のモチベーションが、いわゆるジャーナルに近いところに据えられたからだろう。

   親の喪に籠れる人に
悲しみて我がありし日は言(こと)聞くをうるさしとしぬ言(こと)懸けずゐむ
おのづから御心(みこころ)向かばわが家に立ち寄りたまへ待ちつつゐるに
   読 書
より馴れし机の前に今日(けふ)かへりわが身愛(かな)しむ今更にしも
ひと月を人にまじりて遊びけり身の愛(かな)しさは忘れてありけむ
   家 居
赤土の草立たぬ庭ははためきて照る日に裂けぬ縦(たた)さに横さに
赤土の日に照る庭に水打ちて濡れて黒きをしばしよろこぶ
   本郷なる宇都野君より贈物あり
いぶかしきこの贈りものと小鍋うけ蓋とり見れば煮たる鮎四つ
五人(いつたり)に分けて食はする四つの鮎少きからに更にうましも

  

 同じ歌集『鏡葉』より引いた。生を、本来的な哀しみの連続相として見る、抜き難い性格。それでも、自らの内面を覗き込み、微細なこころの現われを言葉に定着していくことで、生そのものを、幾分かでも価値あるものへと、補強してやるような作歌行為。小なりといえども「本然」を遂げる、そんな精神に触れることが、やはり空穂を読む際の醍醐味であるように思う。そしてそれは、現代を生きる幾たりかの人たちにとっても、「生」から「個人」を救い出してくれる、心的技術といえないだろうか。そこでは、屈折をたっぷりと含んだ措辞は、巧みな歌をものする為にはでなく、「生」と「個人」、「時代」と「個人」の関係を、今一度むすび直すための、文学装置となる筈だ。

 それでも尚、震災詠の「お手本」を、というのであれば、むしろ『冬木原』所載の、著名な長歌「捕虜の死」の慟哭と、自身の慟哭さえ一素材として、コントロールし切ったかのような空穂の「構成力」をこそ、参看すべきものと思う。片や震災、片や戦争。詠まれている対象は異なるが、「個人」の巻き込まれ方においては、本質を同じくする。空穂の「捕虜の死」は、いわゆる枕詞の類は排し、「チェレンホーボ」「高梁」といった語句、「一枚」「一穴」「一たび」「一冬」「五千」「氷点下五六十度」といった数詞、そして「軍服」と「虱」を巡る叙述がキーとなって展開していく。次男の死を悼みつつ、人間の生についての分厚い観察が、全篇に行き渡った、優れて現代的な作品である。大部となるので引かないが、今回の震災について「悲しみ」を、「憤り」を、「励まし」を詠もうとするなら、矢の尖があちらこちらに向きがちな群作ではなく、五七反復の韻律を藉りつつ、一点に思いを集約していく、長歌のような形式もまた、試みられる価値があると思う。津波のメカニズムから原子力行政のありようまで、多くはメディアに由来する、大なり小なり間接の知識が、或いは長歌形式の中では、思い掛けない転生を遂げないとも限らない。

  三回五回八回 ひとつの波の上をいつまでもまはつてゐた 宝石を取落した巨きな碧い水の上で 神々の化鳥が歯噛みしてとり慌てゝゐるやうに 僕の翼が鳴つた 隊長殿 隊長殿 上昇反転から垂直降に自爆した隊長機がいまにもそのまゝの姿勢で やあ心配かけたと ベンガル湾の青い雫を双の翼からポタポタと滴らせながら 身ぶるひして海中から飛びあがつてくるやうに思へて その波しぶきの上をいつまでもまはつてゐました さあ帰りませう隊長殿 もういいのです敵ブレンハイムは完全に御陀仏です 帰りませう さあ 空の壁に空の床に足摺りをするやうに機体が軋つた 隊長殿そんな意地悪をなさるなら自分も着水しますぞ 息の続くかぎり潜つて潜つて手をとつて引つ張りあげに行きますぞ 気がつくと ながいこと息をするのを忘れてゐたやうに胸が苦しくなつた ほうと息を吐くと同じくまはつてゐる僚友伊藤機に翼を振つた ひゆうつひゆうつ翼が泣いてゐると思つた 青いあをい緬印国境アレサンヨウ沖の浪よ そんな馬鹿なことがあるもんか そんなことがあるもんか 言ひ付けてやるぞみんなに 隊長殿が自爆した 隊長殿がいつてしまはれたつ ワーツと泣いて帰る子供のやうにエンヂンが泣いてゐる 泣いてゐる 基地の空へくわつと見開いた眼と機首を向けながら その基地に 言ひつけてやる部隊長御自身のをられないことを 僕はまるで忘れてしまつてゐたのです

 おわりに、福田米三郎の、いわゆる「口語自由律」による《長歌》作品を掲げてみた。こちらは先の大戦に兵として従軍した三十代の作品。米三郎もまた、空穂とは全く違った場所で、その「本然」を遂げた歌人だろう。あまり引用される機会が多くないと思われるので、その若すぎる死への、鎮魂の思いも籠めて。

※引用した福田米三郎作品は「長歌 隊長殿 隊長殿」(昭和18年8月「新日本短歌」)

 一篇には、「軍神加藤健夫少将の一周忌に際し軍神の最後を確認した当時の部下近藤曹長機の心になつて詠む長歌及び短歌」の詞書と、反歌として以下の短歌一首が添えられている。(カン→ 木偏に、旱の旁)

 操縦カンをぐいと引く ベンガル湾が上からかぶさつてきて そのまゝ何も思はれなかつた 

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