短歌時評 第19回 斎藤 寛

機会詩あるいは挨拶の歌

いっせいに虹見るボランティア詰所    山本純子

テレビの「俳句王国」(2011.5.16)の句会(兼題「虹」)に出された句である。今年の3月11日以降にこの句を読んだ者は、何の詞書や注釈がなくとも、句意を理解し、作者の心根に共感するだろう。実際にはこの句は阪神淡路大震災の時のことを想起して詠まれたもので、もちろん今回の被災者たちやボランティアに行っているひとたちへの思いを込めて詠んだ、と作者は語っていた。

短歌においても、もとより事態は同様であろう。今回のように社会的に大きな意味を持つ出来事が生じた時、そこにはおのずとそれを詠むこと・読むことにかかわる磁場が形成される。上記の「いっせいに・・・」の句が、実際には何時のことを詠んだのかにはかかわりなく、それは今回の磁場の中で読まれることになるのだ。僕の経験した範囲で言えば、いくつかの歌会(ウェブ歌会も含む)において、「この歌は実際には今回の震災や津波とはかかわりがないのかも知れませんが、今はどうしてもかくかくしかじかの歌として読んでしまいます」というような発言をたびたび聞いた。3月11日の出来事がもたらした磁場は、やや過剰と思われるまでにその影響力を持って現在に至っているように感じる。

それでも、概して短歌よりは俳句の方が、機会詩ないしいわゆる社会詠として詠まれる度合いは低いのではないかと思われるが、今回の出来事以前においても、新聞の俳壇では、例えば昨年10月10日の日経俳壇・黒田杏子選の欄は、入選句12句のすべてが原爆忌や敗戦や戦争を詠んだ句だった、というようなケースも見受けられる。

蕗の薹詠みたる人の住める町大船渡市に思いをはせる    平山 健
我が短歌を読みてくれたる読者諸氏大船渡市はよみがえるなり    増田邦夫
富岡町夜(よ)の森(もり)に住む半杭氏 津波を、汚染を逃れ得たりや    高野公彦

1首目は、この「詩客」の「日めくり詩歌」(2011.6.10)でも藤原龍一郎が引き、さらにこの「短歌時評」の第11回目でも生沼義朗が言及していた歌。今年の4月18日の読売歌壇(小池光選)に掲載された作品である。2首目は、その「蕗の薹詠みたる人」である増田邦夫からの返歌。同じく5月16日の読売歌壇(小池選)に掲載された。選者の小池は、「大船渡市の増田氏からの返し歌。短歌はこうやって見知らぬ人同士をつなぐ。新聞歌壇ならではの歌のやりとり。結句が力強くて、こちらの方が励まされる」と選評に書いている。これはもはや歌評というよりは、新聞歌壇を介したひととひととのつながりを稀有なものとして受けとめている文章だ。

 3首目は「短歌研究」2011年5月号掲載の「半杭螢子氏へ」7首の6首目。半杭が朝日歌壇(高野は選者の一人である)の投稿者であり、福島第一原発と第二原発の中間に住んでいることを、昨年の半杭の作品一首を引いて紹介する詞書が付されている。こちらは、新聞歌壇の選者から一投稿者へ発せられたお見舞いの歌だ。半杭は、「ありがたいことです。これはもう、頑張って歌を詠み続けるしかないですね」と語っているという(三山喬「震災歌人をさがして」=「週刊ポスト」2011.7.15)。

生沼は上記の時評にて、共同体あるいは自己への祝詞としての短歌、という切り口から論じていたが、ここではもう少しシンプルに、何ごとかが起きた時にひとを見舞う歌、そしてそれへの返礼、というように、ひととひととがやりとりをかわす歌、挨拶としての短歌、という視野の中に上記のような歌を置いてみたい。単独なる者が世界の中に立って芸術としての一首を彫啄する、というようなモードではなく、その言葉はいきなり公共世界へ向けられているのではなくて、特定の相手へのメッセージとして、その極北においてはただ一人の読者へ宛てて私信に記されるようなものとして詠まれる短歌、である。

 はるかさかのぼれば万葉の相聞にまで話は及ぶのだろうが、近代以降においても、例えば『子規歌集』(土屋文明編、岩波文庫)に次のような歌がある。

飄亭(へうてい)と鼠骨(そこつ)と虚子(きよし)と君と我と鄙鮓(ひなずし)くはん十四日夕(ゆふ)
今日(けふ)や来ます明日(あす)や来ますと思ひつつ病の床に下待(したま)ちこがる

 1首目は1900年(明治33年)の歌。「碧梧桐へ(四月十三日)」という詞書がある。今だったら「明日の夜、こういう面子で鄙鮓を食おうよ」というメール一通ですむような“連絡”ないし“おさそい”だが、そうか、こんなふうに歌にして送っていたんだ、と思って読んだ。こういう歌がこの文庫本では何首か拾われている。当時の東京市内の郵便は、たしか一日に12回ぐらい回収していて、午前中に出せばその日のうちに届いた、という記事を新聞で見たことがあった。今の郵便よりはるかに速い。だから13日に投函して翌日の夜のおさそいというのはセーフだったのだろう。

2首目も同年の、「左千夫へ(六月八日)」という詞書がある2首のうちの1首目。「来ておくれよ~、病の床で待ってるんだからさあ・・・」と懇願している歌。かと思うと、次の歌は《十日は発句(ほく)の会なり九日の朝からきませ茶は買ひてあり》という歌で、これも早目に来てよとは言っているが“業務連絡”みたいな歌だ。

こういう歌は、もとよりひとに感動を与えるような名歌・秀歌の類ではないけれども、かつて歌はこのように詠まれてもいた、という記録としては貴重なものだと思う。先日、「NHK短歌」(2011.5.8)にゲストとして出演した坪内稔典も、こうした子規の歌に言及して、その後、歌も句も洗練された「芸術」に絞り上げられすぎてしまったのではないか、こういうものも含めて歌や句なのだということをもう一度確認したい、と述べていた。

つらゆきの土佐の高知の地鰻を肥後の傘張り素浪人が食う
麵麭にジャム塗りつつ遠く浅間山噴火の灰の降る街恋し

 上記2首は、今年の2月に他界した石田比呂志の歌集『邯鄲線』より。石田も、こうした歌を何首か歌集に収めている。1首目には「入部英明君へ」という詞書がある。高知の鰻を送ってくれたことへの御礼の歌だ。2首目の詞書は、「ジャム十六種類送り下されし軽井沢の人へ」。特に親交のある相手というわけではなく、一人の石田ファン(「恋し」というのだからおそらく女性だろう)からのプレゼントだったのだろう。「ありがとうございました」と葉書一枚出せばそれでもよさそうなところ、石田はこうして御礼を歌に詠み、それを歌集にも入れていたのであった。こうした歌を贈られた側からすれば、葉書一枚の何十倍も嬉しい返礼だろう。

第二芸術論風に言えば、このような歌は第二どころか第三芸術、否、芸術と呼ぶには値しない、その場限りのフローですませるのならともかく、なぜ歌集というストックにまで記録するのか、ということになるかも知れない。 だが、そもそも、このようにしてひととひととが呼び交わすやりとりこそが歌であったのではないか。そして、それはだいじなことなのではないか、とこのところ僕は思うようになった。芸術作品として洗練されたものだけが歌なのではない。民謡とマーラーのシンフォニーが地続きであったように、挨拶の歌と芸術的表現としての歌というのも地続きだったのではないか。この“地続き”感はだいじにすべきものなのではないか、と思うのである。

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