短歌時評 第21回 松野志保

今はもう、いない

 震災についてあれこれと思いを巡らせていた夏の初め、一冊の本が私のポストに届いた。

 依田仁美『あいつの面影』は、飼い犬(作者の言葉を借りれば「異種息」)の一周忌に捧げるために編まれたという少々風変わりな歌集である。一匹の子犬が作者の家にやってきて雅駆斗と名付けられ、家族の一員として過ごし、やがて脊椎の腫瘍のためこの世を去る。その六年間の思い出が、作者の手記、死後にクッションの下から発見されたという「雅駆斗の手記」、そして挽歌によって綴られていく。

 正直に告白すると、最初にこの歌集を手にした時、少し、ほんの少しだけ、「なぜ今?」と思ってしまった。この国が、震災の死者への哀悼の念に覆われているさなかに犬の追悼歌集?

でも、作者は雅駆斗の不在を深く嘆きつつも、己の悲しみが非常に私的なものであることをよくわかっている。他人から見れば「たかが犬の死」に過ぎず、「ペットロス症候群」というともすれば冷たい一語で片付けられることを承知の上で、その犬に語りかける形でこう記すのだ。

  キミへの溺愛のべたべた短歌なんかは、「社会的短歌」としては成立しない、といえるわけ。でもなあ、おれにはおれのロンリがあるんだ。(中略)詩人が沸騰するということは、私的環境で極限まで昇りつめることだ。(中略)つまりなあ、この極私とは手放し。その中にこそ、詩的沸騰は起こるんだとおれは信じているんだよ。

 『あいつの面影』を読み進めていくうちにむしろ思い出されてならなかったのは、直前に読んだ長谷川櫂の『震災歌集』だった。そして、『あいつの面影』が「私的」で、『震災歌集』が「公的」「社会的」かというと、決してそうではないと思ったのだ。

 病変の色いよ冴えてその雄は親しみの尾をさらさらと振る
 起き抜けの心にひやり風沁みる風を探せばもとよりあらぬ
 秋風の寄せて帰らぬ波形かなかえすがえすもそなたに会いたい

 『あいつの面影』に充ち満ちている喪失感。しばらく前まで確かに存在していたもの、自分と確かな絆で結ばれていたものが突然いなくなる。それは、この春から夏、秋と季節が過ぎていく中で多くの人が抱いていた喪失感と響き合っている。

 震災で家族や直接の友人知人を亡くした人だけではない。営々と築き上げてきたものが津波で一瞬のうちに失われ、穏やかな日常が原発事故によって奪われるのを見てしまった時、私たちは多かれ少なかれ、自分の一部をもぎ取られたのだと思う。

あまりにも大きな喪失を前に、多くの歌が作られ、さまざまな言説が世にあふれた。それらを消化しきれずにいる中で、この歌集は悼むこと、喪失を向き合うことの基本に私を立ち返らせてくれたのだと思う。

 『あいつの面影』読了後、『現代詩手帳 吉原幸子』を本棚から引っ張り出した。連想読書とでもいおうか、死んだネコについての詩「ゐる」をもう一度、読んでみたくなったのだ。

 思ひついて
 ベッドの下に手をさしこむ
 すると あ!
 わたしの指は
 柔い 毛ぶかいものに
 たしかに さはったのだ
 
 
 のぞきこむのはよさう
 そこにゐるのは あの子にきまってゐる
 でものぞいたら きっと
 スリッパのふりをするだらうから
 

 静謐で端正だけれど、ここにも喪失を前にした手放しの詩的沸騰がある。

 さらに読み進めていくうちに、晩年の作品「むじゅん」で手が止まった。この三月以降の状況にあまりにもぴったりに思えて。

 とほいよぞらにしゅうまつのはなびがさく
 やはらかいこどもののどにいしのはへんがつきささる
 くろいうみにくろいゆきがふる
 わたしはまもなくしんでゆくのに
 みらいがうつくしくなくては こまる!
 

 今はもういない詩人の遺した言葉は、ひどくやさしくて、真っ直ぐだった。私は責められているような、慰められているような混乱した気持ちのまま、「うつくしいみらいでなくてごめんなさい」と何度も心の中で呟いた。

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