短歌時評 第25回 花鳥佰(かとりもも)

口語化は階段を一段登った

今年の「短歌研究新人賞」、「角川短歌賞」、「現代短歌新人賞」が決まった。
短歌研究新人賞は馬場めぐみの「見つけだしたい」に。角川短歌賞は立花開の「一人、教室」に。現代短歌新人賞は小田鮎子の「迷路」に。

歯ブラシで排水溝をひたすらにこする時の目でなにもかもを見る   馬場めぐみ

やわらかく監禁されて降る雨に窓辺にもたれた一人、教室   立花 開

園庭にわが子を探すわが子だけ探せば迷う深き迷路に   小田鮎子

おめでとうございます。

大学生の馬場めぐみのうたも高校三年生の立花開のうたも、口語だけでできている。これで、短歌研究新人賞の受賞作は六年続けて口語短歌の作品になった。
ちかごろ短歌の文体論、とくに口語論が盛んである。「歌壇」1月号の特集「現代短歌の突破口はどこにあるか」、「短歌現代」4月号の特集「現代短歌の文体」、「短歌研究」4月号の特集「口語と文語、新仮名と旧仮名――私の場合」、そして「歌壇」9月号の特集「異なる世代の考え方に触れるーー短歌の現在」等で口語の問題がいくつも論じられており、第二十九回「現代短歌評論賞」のテーマは「現代短歌の口語化がもたらしたもの、その功罪」だった。それだけ現代の短歌では「文体」、さらに言えば「口語体の短歌」の動きが注目されている。

「短歌」の2011年2月号に米川千嘉子の「口語のからだ」という一連があり、その中に

ああ口語のしろいからだは動くなり『葦舟』閉ぢて目をつむるとき   米川千嘉子「口語のからだ」

という一首がある。河野裕子の生前最後の歌集『葦舟』は、ずっと口語混入の文語のうたを作ってきた河野の歌集の中でも、口語率が非常にたかい。
「米川が〈口語のしろいからだは動く〉と言っているのは、短歌形式が歴史的に築き上げてきた五七五七七のリズムに基づいた様式を凌駕するように、あるいは内側から揺するように、現代口語独特のリズムが大きくうねっている、という意味に私は読んだ。伝統的短歌の韻律がベースにあって、そこに口語が混入しているという段階を過ぎて、あきらかに別種の韻律が読めるというのである。口語のからだの動きとしか言いようのない韻律のうねり方。」と、佐佐木幸綱は「短歌現代」4月号にいう。

 今回の「現代短歌評論賞」の受賞者、梶原さい子の評論「短歌の口語化がもたらしたもの」によれば、現在入試で古典が必要な大学はほとんどないという。それでも古文を、という少数派を除けば学生たちが文語に触れる機会も必然性も減っているわけで、この「短歌の口語化」はしかたないことかもしれない。五七五七七のリズムはもともと文語にふさわしく作りあげられたものなのだが、その文語定型を試みることも経験することも、もしかしたら文語短歌を読んだこともないままに短歌を作る人たちが増えている、と思わなくてはならないのだろう。

好きなものを思い浮かべてはその色彩を繋ぎとめていくパッチワーク   馬場めぐみ「手のなかの色彩」
ひととひととひとのなかにいる眩しさを怯む両手にちゃんとのせていく

 「短歌研究」10月号に掲載された第54回短歌研究新人賞受賞者、馬場めぐみの受賞後第一作「手のなかの色彩」30首を読んでみた。

 一首目は、好きなものをあれこれ思い浮かべ、その浮かんだものの〈色彩〉を自分の頭のなかで次々に繋ぎあわせてひとつの模様をつくりあげて楽しんでいる、色彩感の豊かな繊細な女性のすがたが浮かぶ。二首目からは、大勢のひとのなかに(目だつ存在として)いることのまぶしさ、おもはゆさにおじけている自分を意識しながら、その情況をきちんと受け止めて人のなかを進んでいく、内気だが芯のつよい若い女性の姿が見える。どちらも言いたいことを詩的に表現しているが、黙ってふっとこの二首をさし出されれば、ふつう「短歌」とはおもわず、二行の散文、または詩がならんでいる、と思うにちがいない。一首目は六八七八六のリズム、二首目は六八五七八のリズムである。

 この程度の字余り破調でもあきらかに「短歌」と読めるうたはたくさんある。馬場の上記の二首はどうして「短歌らしく」見えないのか。「好きなものを」は第二句三句を「短歌」の韻律、リズムに乗せようとしていないせいだろう。「ひととひととひとの」は四句目までは短歌として読める。だが、五句目で急に韻律が崩れてしまう。ほんの一音、二音のことだが、韻律に乗りきらず「非短歌風」になってしまう。不思議なものだ。フラワーしげるの「小さなものを売る仕事がしたかった彼女は小さなものを売る仕事につき、それは宝石ではなく」(「ビットとデシベル」)は48音から成る大破調のうただが、声に出して読んでみるときちんと短歌の韻律に乗っている。小さな破調でも決められるはずのところが決まっていないと、がぜん「短歌らしくなく」なるのかもしれない。

馬場めぐみのどちらのうたもその気になれば比較的かんたんに「短歌の韻律」に納めることができる。だが、作者は納めようとはしなかった。自分の想いを読者に差し出し、理解してもらうには、従来の韻律ではなく、このリズムがいちばんふさわしいと思った。

自分の肉体をむきだしにさらけだすのではなく、要所要所をさりげなく短歌の「枠組み」に添わせることによって、あからさまに肉体を誇示するよりも有効に自分を見せる、つまり「短歌の枠組み」を利用して「自分」を表現する文語定型の短歌を、直線裁ちの「着物」をまとったうたとすると、自分の肉体にきっちり合わせて布を裁断していくの口語の短歌は、「洋服」を着たうたと言えよう。

いつ見ても三つ並んで売られおる風呂屋の壁の「耳かきセット」   俵 万智『サラダ記念日』
雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁   斉藤斎藤『渡辺のわたし』  

 文語を残しつつ周到に五七五七七の定型に納めている、現代の口語短歌の先がけとなった俵万智のうたは「着物地で作ったスーツを着たうた」と言えるかもしれない。ひりひりするような緊張感のこもった、斉藤斎藤のまさに現代の若者の短歌さえも、ここをはずしては「短歌」ではなくなると思い決めているように、「枠組み」を意識したやわらかなスーツを着ている。それに対して馬場めぐみの短歌は片方の肩だけをむきだしにしたような、かなりエキセントリックなスタイルのワンピースをまとっていて、それは馬場の内面をそのまま反映しているのだろうか。

短歌研究新人賞を受賞した「見つけだしたい」のうちの一首、「歯ブラシで排水溝をひたすらにこする時の目でなにもかもを見る」をとりあげ、四句五句が八音八音の字余りになっていることについて、選考委員の栗木京子は「ここをきれいに整えようと思えばできるかもしれないんですが、この粗さですよね、そこにこの人の非常に切羽詰まった感じが出ているということで私はプラスにとらえたいと思いました」と、破調を好意的に解釈している。選考委員の過半が同じように「短歌の韻律」よりも「内容」を重視して、馬場めぐみの作品を選んだ。それだけ馬場のうたが魅力的だったということだろう。彼女の短歌は、これから読者の目を意識することによりたぶん「短歌の従来の韻律」に近づいていくと思われる。だが、とにかくここまで「短歌の従来の韻律」に無頓着な作品が「短歌研究新人賞」という大きな賞を得た、一種のお墨付きを与えられたのは、はじめてのことだろう。「短歌の口語化」は明らかに階段をさらに一段登った。

 「和歌」の時代は考えに入れないとして、正岡子規の没後100年以上が経過し、斎藤茂吉の没後50年以上が過ぎた。長い、とも言えるが、短い、ともいえる。その間に基本的に五七五七七の定型、韻律を持ち31音から成る「短歌」は、ありとあらゆると言ってもいいほどの変化を重ねてきた。「口語短歌」も「自由律」もすでに経験済みのことである。

ドーキンスの『利己的な遺伝子』に倣っていえば、「歌」という舟は千年以上も歴史の海をわたってきた。その乗組員のスタイルが文語、口語、外来語、自由律、話しことば等さまざまに変わっても、「舟」はすべてを飲みこんで、変わるふりをしつつ根本は変わることなくゆったりと航海を続けてきた。これからもそうだろう。現在は口語の波がふたたび押しよせて舟の漕ぎ手たちはどうすべきかと右往左往しているが、百年後、千年後、日本語の続く限りたぶん「歌」という舟は航海を続け、そのときどきに新しい衣裳を着こんだ乗組員を乗せて世界に合図を送りつづけるはずだ。千年後の「歌」の姿をなんとか見たいものだと、好奇心がうずく。

執筆者紹介

  • 花鳥 佰(かとり・もも)
短歌に出会って約10年になる。
編集業のかたわら小説を書いてきた。

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