短歌時評 第26回 田中濯

男性短歌

俳句同人誌『スピカ』第一号を読んだ。特集は「男性俳句」である。非常にキャッチーかつ本質的テーマで、同人のセンスの良さが伺える。男女六人での対談と女性のみ五人による対談の二つの対談と、評論四本から構成されており、バランスもよい。特に、男女混合対談に見られる「手探り」感と、女性のみの対談に見られる「本音」の表出が対照的で面白かった。結論らしきものはでておらず、ぼんやりとしているけれども、倦みきった「女性俳句」というカテゴリをひっくり返し、「男性俳句」と言う視点を打ち出した時点で手柄である。そこで本稿は『スピカ』に敬意を表し、「男性短歌」について少し考えてみたい。

「男性短歌」と言われてすぐに思い浮かぶのは佐佐木幸綱であろう。典型的マッチョとして自己を表現する佐佐木の歌は、例えば、

ジャージーの汗滲むボール横抱きに吾駆けぬけよ吾の男よ   佐佐木幸綱

に特徴的である。歌舞伎の見得、のように「男」を打ち出してくる佐佐木の意思は揺るぎない。男は決して、メソメソ泣いたりしないのである。この歌は初期の作品だが、佐佐木はその後も自己模倣を丁寧に繰り返し、「家父長制的父」のイメージを確立した。いわば、「キャラが立った」のである。このベクトルは佐佐木の独壇場であり、スケールの大きさを考えると唯一無二の存在である。

さて、男性性は権力を主に志向するわけだが、腕力が通用する単純な世界観に対し、知性でもって権力が贖われる世界は、より現代的であるといえるだろう。このとき決して外せないのは岡井隆である。

原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは   岡井隆

権力がエロスと結びつくこと、極く私的には女性に対する優越であることを、岡井は知り抜いている。建前は建前として、世界は不均衡であり、優劣があり、そこからあふれ出る様々な感情がある。岡井はいわゆる「世間知」を把握するものとして世界に君臨する。これもまた、「父」のひとつの形であろう。現在の「男性短歌」は少なからず、佐佐木あるいは岡井の影響下にあり、ということはすなわち男=父という等号を無視できない、ということになる。

ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は   穂村弘

とはいえ、時代は移り変わる。挙げた穂村の歌には、マッチョも権力者も姿をあらわさない。泣きながら家電を使う等身大の人間がまずあり、その後で性(「おれ」)が来る。いや、性・性差などなくても、実はよいのではないだろうか?あるいは

ハンバーガー包むみたいに紙おむつ替えれば庭にこおろぎが鳴く 吉川宏志

吉川は短歌における「父」の姿を決定的に変えた。現在では、父に威厳をもたせるほうがよほど不自然であり、より私(田中)の実感に近い。男=父という等号を無視できない、と先ほど述べたが、その縛りはもはや大枠としてあるのみで、男性個々人にとっては、取捨選択可能な程度の「属性」にすぎなくなったのだといえるだろう。

本稿は時評なので、時評らしいことも書かねばならない。先月、今年の角川短歌賞が発表され、立花開(女性)が受賞した。

うすみどりの気配を髪にまといつつ風に押されて歩く。君まで
抱きしめる君の背中に我が腕をまわして白い碇を下ろす

一方で、次席の薮内亮輔は

医師とあなたとだけが笑つて言ひ合つて泣いてゐたりき 冬の花咲く
ホチキスにみつしりと銀詰まりをりたまらずわれの犯す空撃ち

このような歌を作っている。この二人は二十歳前後ということで、一応は同世代といえるだろう。しかし、「女性短歌」「男性短歌」のくくりで見ると、若い女性の相聞、という典型に自覚なく寄り添った立花ではなく、特に二首目に見られるような性の鬱屈感をもって自己の性に対峙している薮内のほうに、分があるように思える。薮内は、一連から意図的に直接的な相聞を排除しているように見えるが、それは彼には彼なりの「男性短歌」の姿が見えているためであろう。

以上、審査員諸氏には、「若い女性」の「相聞」の歌にプラスアルファの印象をもって臨むのではなく、むしろマイナス点をつける覚悟で臨んでもらいたいものである。なぜなら、「若い女性」の「相聞」よりも、いまや「男性短歌」のほうがより混沌としており、したがって困難な状況にあるためである。あるいは、「男性短歌」のほうに新奇性が表れやすい状況にあるためである。新しさの萌芽を、みすみす見逃していてはならない。

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