短歌時評 第30回 田中濯 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト

短歌時評 第30回 田中濯

短歌と病

 短歌と病は親和性が高い。また重篤であればあるほど、病は個人にとって決定的なスティグマとなる。石川啄木の結核や、河野裕子の癌はその典型である。一昔前にはハンセン病患者たちの手により「ハンセン病短歌」というべきカテゴリすら形成されていた。この種の短歌が近代の産物であることは疑いようもなく、知識階級から一般大衆への短歌の伝播にも大きな役割を果たした。したがって、ポピュリズムとの関連も考慮しなければならない話題である。例えば、いわゆる「河野裕子現象」を説明する切り口のひとつであろう。

 さて、渡辺松男の第七歌集『蝶』が今夏出版された。今月発売の「角川短歌年鑑」において評者全員が「今年の十冊」に選ぶなど、既に高い評価をうけている。あとがきから、妻が存命であり、自身が筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断される前の作品三五六首(二〇〇四-二〇〇六)からなることがわかる。

てのひらを枯野の下にさしいれてにんげんのさみしさは枯野を剥がす
あきかぜに白き岩あるすずしさはその岩のなかさかながおよぐ
ゆきつけぬまま消えてゆく雲をみてなにゆゑか歯をくひしばりゐつ

 渡辺を評するときには、「独自の世界観」という形容が常になされる。挙げた一首目。「われ」ではなく「にんげん」としていることに注目である。剥がされた枯野は、あっというまに「にんげん」の掌大の大きさになる。「にんげん」が巨大化したのか、「枯野」が縮小したのか、もちろん剥がされたのは枯野のほんの一部なのだろうが、仕掛けられた「スケールの混濁」に読者は混乱する。二首目。渡辺は岩の中をおよぐ「さかな」を幻視している。ここまでは誰でもできる。渡辺は「あきかぜに白き岩あるすずしさは」という上の句により、幻想の「さかな」に圧倒的リアリティを与える。このとき、渡辺の幻想は読者にわかりやすい(あるいは納得できる)水準で手渡されている。この上句が渡辺の真骨頂なのである。三首目。雲に自己を仮託し、その満たされぬ運命に「歯をくひしばる」のであれば、話は簡単だ。渡辺はここで「なにゆゑか」という屈折を入れる。そうすることにより、より強烈に「雲」から「歯」への移行が印象付けられる。ここではさらに、すべてが「肉体」に返っていることに注目しておこう。自身の身体感覚と自然との伸縮自在な交流は、渡辺の歌のオリジナリティの根幹をなしている。

 本歌集はALSと診断される前の歌からなる。したがって、本稿において私は『蝶』にALSの影響を指摘したいのではない。一般にはあまり知られていない事実を指摘し、その事実をもって渡辺の歌――誰もがその実力・独自性を認めていながら、しかるべき賞賛が全く追いついていない「不遇」の作家の歌、を「再評価」したいと考えている。これは非常にナイーブな問題を孕み、本稿で踏み込むことに長い間逡巡したことを最初にお断りしておきたい。そして、私の評価と逆の評価を本稿の読者が感じることがないよう、祈るものである。

 渡辺松男は統合失調症を罹患している。結社誌「かりん」2010.11月号に記された年譜によれば、2007年に統合失調症で病休、とある。また同年譜によれば、1980年に「初めて精神科受診」とのことである。ある程度、長い期間をかけて、渡辺の病は進行していたのかもしれない。統合失調症はまれな病気ではない。人口の約1%が罹患するとされ、日本においては、約130万人の患者が存在するとみられる。過去においては効果のある薬・療法がなかったこともあり、患者が早期痴呆状態にまで陥ることも多かった。その病態から差別を受けやすかったこともあり、年譜に公表するには決断を要する重い事柄、しかし重要な事柄であったといえる。症状としては、記憶と妄想の時系列的な混乱により、思考・感情に「障碍」が表れるもので、具体的には幻聴や自我意識(自己と他者を区別する能力)に「障碍」が表れることが多い。より詳しく知りたい向きにはPHP新書『統合失調症』(岡田尊司)、具体的な闘病記としては新潮文庫『ボクには世界がこう見えていた』(小林和彦)を勧めたい。どちらも廉価で手に入れやすく、名著である。

さへづりの中あゆみつつどこまでもさへづりあれば吾はうごく虹
光芒の根のところ亡き父の見え薬ぶくろはばりばり音す

 ここで再び『蝶』を見てみよう。一首目。吾は「うごく虹」であるという。通常の感性であれば、この表現に届くことも解釈することもできない。しかし、統合失調症という「前提」があれば、渡辺は「さへづりの中あゆみつつどこまでもさへづりあれば」という状況下では、彼は確かに「何者か」であり、それを「うごく虹」として表現することが、読者である我々に最も届きうる言葉として選ばれたと「解釈」することができる。彼は「虹」としかいえない存在だったのだ。二首目。見えた「亡き父」は想像力の産物ではない。我々はこれを幻覚と呼ぶが、渡辺にとっては実際に見えているただの現実にすぎない。したがって、「薬ぶくろはばりばり音す」の下の句は突飛な付け句ではない。どちらも「現実」なのである。

 また集中には「みみ」という一連がある。全て挙げよう

みみのおくふかくにそよぐ椰子のあり耳のおくみどりいろにあかるむ (夏)
天からのゆふべのおくりものはみみ鈴虫ひやくひき燃えてゐる耳   (秋)
吾(あ)ゆ耳の離れてぞあるそのなかにこほろぎの鳴く必死のみゆる
零時ともなれば耳のなかすなわち真闇にてわれにきこゆる臼のうたごゑ (冬)
耳の奥にはしとしとと雨つづきをりしかすがに耳の奥を人去る (春)

 圧倒的な想像力である。その上で、「統合失調症による幻聴」という思考の踏み台を置いてみよう。ただ遠くで眺めていただけ、ただ「なんだか凄い」としか捉えられなかった渡辺の歌に、我々はかなり近づくことができるのではないだろうか。

 断っておくが、私は渡辺を貶めたいのではない。その逆である。渡辺の体感している世界は、我々のものとは少し「ズレて」いる、はずだ。その世界は、日本で約130万人が体感している「異界」でもある。しかし、その「異界」を文学として我々に手渡してくれた存在は、芥川龍之介など極く少数である。渡辺はその数少ない例外といえるのである。通常、統合失調症は思考力の低下を招くが、渡辺にはあたらない。むしろ膨大な知的労力をもって、かの世界をこちらがわの言葉に翻訳し、なおかつポエジーを発散させる短歌のかたちで表現する天才、である。私はそのように渡辺松男を再評価したいと考える。

 最後にALSについて触れよう。ALSはごくまれな疾患であり、治療法のない難病である。なぜ渡辺のような稀有な存在に、ふたつもの難病がふりかかるのか、わたしは神や運命といったものに深い怒りをおぼえる。われわれが渡辺の歌をリアルタイムで鑑賞することができるのも、そう長くはない可能性がある。渡辺には、地上の名誉など取るに足りないものであるかもしれないが、それでも私は、彼は名誉に彩られるべきだと思う。そして、よりよく、より多く、彼の歌が引用され解釈され評価されることを強く願う。

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