短歌時評 第33回 棚木恒寿 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト

短歌時評 第33回 棚木恒寿

2011年もいよいよ押し詰まった。石川美南の『裏島』『離れ島』は、秋の出版以来、筆者の中で評価が長らく判断保留になっていた(しかしどこか魅力を感じでいた)歌集である。石川が長く試みてきた連作主義による物語性やフィクションは、現代短歌にとって今さら新しがるような事柄ではないかも知れないが、そのような構成をするたくらみや、歌の細部の読みについて確信を持てないことも多く、なかなか言及することが出来なかった。現時点での私の疑問点や歌の読みを記して、新年を迎えたい。

版元でもある本阿弥書店「歌壇」が12月号で我妻俊樹と佐藤弓生による書評、1月号で真中朋久による歌人論を載せている。我妻の文章引用してみよう。

手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ 『裏島』
捨ててきた左の腕が地を這って雨の夜ドアをノックする話 『離れ島』

石川美南は物語作家である。石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ。また石川の一首は今ここを語る言葉が、つねにここにないどこかを語る最初の一行になろうと身を震わせている。そこであくまで二行目への踏み出しをこらえることで物語作家は歌人に踏み留まっている。連作で二行目三行目があとに続くかに見えたら、それは物語のありえたかもしれない別の一行目が語りなおされているのである。

物語の二行目をこらえる石川は当然ながら、作品に自閉した王国を作り上げることはない。物語作家が短歌とともに手に入れた武器である文語や旧かなは、彼女にとって物語の領土を現実から守る城壁ではなく、あくまでここにはない世界への違和と親和をさびしくつたえるためにある。

やや観念的で分かり辛い部分もある評だが、「作品に自閉した王国を作り上げることはない」という指摘はなかなか鋭く、賛成したい部分である。石川の作る物語は彼女の美意識に統べられた空間ではない。例えば吾妻引用の2首目でいうと、結句で「……する話」となるように、4句目までに提示された物語が微妙に間接化されている。作品を統べるような自意識の濃度は比較的薄いといってよいだろう。同じ特集中で佐藤弓生が石川作品を「奇想や言葉遊びに、たとえば大滝和子や穂村弘や永井陽子の歌に通じるユーモアを見ることもできよう」としつつ、「しかし大滝の照応(コレスポンダンス)へのこだわりや永井のメランコリア、穂村の“ものの見えなさ(の演出)”は感じられない」と指摘する部分と呼応しているように思われる。

また、我妻は石川が物語作家であることを強調して「石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ」と指摘するが、この辺りは、筆者としては微妙な違和を感じる部分だ。たとえば、1首目では、万国旗を出した右手よりも、しずかに還ってゆく左手への心寄せが語られるが、そこにある抒情はむしろしみじみとしたものであり、短歌的であるとも言えよう。我妻は、石川の試行にコンセプチュアルな意味での短歌の新しさを読みとろうとしすぎていないだろうか。

さて、私自身の読みをここで語らなければならない。『裏島』の巻頭の連作「眠り課」から何首か引用する。一連の冒頭には「あくまで噂、なのだが、私の会社には会社組織表に記載されてゐない〈眠り課〉なる課があつて、密かに社を牛耳ってゐるといふ。」という詞書が置かれる。

ともすれば目に覆ひかぶさつてくるまぶた・目のふた・不確かな昼
川向きの窓は二センチ開かれてあくびのやうな風を入れをり
こころこころこころ 私につながれた流量計がしきりに動く
空色の胸をかすかに上下させ呼吸してゐき折り紙の犬
合歓の花くるくると降れ 声もなくその場にしやがみ込む人たちへ
熱い手で額に判を押されたらここからは眠り課の管轄
尾もひれもはがれて終はる 入り口と出口のかたち異なる夢は

眠り課という課の置かれる会社の日常や社員の動きが、連作のなかで次々とで語られてゆく。1首目、眠り課の業務?により社員みんなが昼寝をする会社なのだろうか。作中主体の私の意識は昼過ぎにはあやうくなってゆく。「目に覆いかぶさってくる」という表現がおもしろい。ずいぶん大げさな言い方で、イメージとしては巨大な瞼がまるで緞帳のように目の前に垂れてくる感じだろうか。それを、すぐに目のふたと言い替えるのだが、そこには自分の意志ではコントロールできないような大いなる眠気が漂って来る。そしてたちまち昼と私の意識は不確かなものとなってゆくのである。なかなかにテクニカルで歌としての完成度も高い一首だと思う。

もう少し付け加えると、この大いなる眠気の感覚は、眠り課の置かれる物語上の会社だけではなく、私たちの日常にも潜んでいるものだ。ぼんやりとした職場の昼下がり、大いなる眠気は私たちの上にしばしばやって来る。作品では、物語の設定により異化されてはいるが、そこにある眠気の感触は私たちの日常の延長上にある。

2首目では「あくびのやうな風」に昼下がりの窓から吹き込んでくる風のけだるさが感じられて、フィクションなのにどこかリアルだ。この歌などは、物語の設定を超えて読めるかもしれない。4首目、眠り課がある会社ならば、折り紙の犬が呼吸をすることもあるのだろう。折り紙の色でもある「空色の胸」という描写が妙に具体的?で実在感がある。7首目は、下の句はやや舌足らずかも知れない。夢を見る前と見た後ではものの見え方や感じ方が変わることがあるが、それとのアナロジーで夢の入り口と出口は形が異なっているという感覚はよく了解される。夢に入る前にはあったはずの尾もひれもはがれて、夢より覚めということになる。

この「眠り課」一連などは、物語の形で語りながら、そこにある感覚は案外と日常の延長上のものである。フィクションの中に、日常の感覚が潜んでいる。あるいは日常のなかで経験する感情や物事が石川と言う個性を通して次々に異化されてゆくのだと言える。石川の提示する物語は、意外にも日常の感覚とゆるやかに繋がっているのではないだろうか。

フィクションである、物語である、三人称であるということで、短歌が何か大きく革新されるというのは、俗説である。1首1首を静かに味わい、じっくりと検討することが石川作にとって重要なのではないか。私なりの読みを2、3記して本稿を終える。

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