短歌時評 第34回 花鳥佰(かとりもも)

「結社ってなに?」

今年がよい一年になりますように。

「結社ってなに?」
昨年のクリスマス少し前のこと、久しぶりに会った姪とおしゃべりしている途中、とつぜん訊かれた。「結社の歌会があってね」と、私が何気なくいったのに反応したのだ。
「なにかこわいものみたい。秘密結社みたいの? 入るときに血判とか捺すの?」
ヴァイオリンという西欧の楽器を使って西欧の音楽を演奏することを職業とする彼女には、「結社」のひびきはとても遠く、秘密めいて、なにやらおどろおどろしく聞こえるらしい。

最初から最後まで氏名も性別も年齢も、もちろん所属結社もわからないまま選者が一次から最終までの三回の選考をすることに特徴のある「短歌研究新人賞」の、2011年度の最終選考通過作品の作者25名のうち、結社に属していない作者は13名で、5割を越える。(同人誌や短歌のグループは結社から外して数えた。)若い作者だけでなく、18歳から77歳までと年齢の幅もひろい。受賞者の馬場めぐみさんも「所属なし」である。

「歌壇」12月号に「わが誌の創刊号を読む」という特集があった。明治31年創刊の「心の花」から昭和29年創刊の「塔」まで、16結社の「創刊のことば」と創刊号の内容の紹介などがある。「短歌」に対する一般の人々の興味がいまに比べればはるかに大きかった時代に創刊されたものだけに、どの結社誌にも賑やかで勢いのある決意に満ちたことばが踊っていたようだ。それらのことばを読むだけでなんとなく元気づけられる。

当時は、「結社ってなに?」という疑問を抱くような人はいなかったのだろうか。

当時から、そして10年ほど前まで、おそらくネット上で歌会が開かれたり短歌に係わる会話が交わされたりするまで、「短歌」を作るには結社に入るのがあたりまえであり、そこでする苦労も修行のうち、という考えがたぶん常識のようにあったのだろう。それがいま、崩れかけているらしい。「短歌」と「結社」はそれほど近しい存在ではなくなったのだろうか?

年末という、忙しいのだが頭の中は比較的ひまなときに、そんなことをうつらうつら考えていた。

おおかたの「結社」ではいわゆる「主宰者」を中心に歌を作る人間が集まっていて、定期的に発行される機関誌があって、その機関誌の締め切りに間に合うように決められた首数だけ短歌を送り、会費を払い、「歌会」があって、ほとんどのところで「選歌」と、場合によっては「添削」もあって……などと「結社」の特徴を考えているうちに、よくわからなくなった。自分が所属している結社の、それも自分のほんの身の周りのことはある程度わかるが、全体については、ましてや他の結社についてはほぼ何も知らない、ということがよくわかった。

『現代短歌大事典』の「結社」の項を見る。
〈語義〉としては、結社は「特定の目的や関心にもとづいて結合した集団で……短歌の場合はある指導的歌人を中心に、志を同じくするものが集まり、機関誌を発行し、歌会をおこなうのが基本活動とされるが、時代とともに変容もみえる。」とあり、
〈歴史〉として、「制度としての『結社』が意識され、歌壇に定着したのは大正期に入ってからで、雑誌名であらわせば『写生』を標榜する『アララギ』(一九〇八・一〇創刊)が頭角をあらわし……結社の成立や解体は年々めまぐるしく続いている。」とある。
その「アララギ」も1997年12月に第90巻をもって90年の歴史を閉じた。(『現代短歌大事典』参照)

そもそも、「結社」はなぜひつようなのだろうか? 私は短歌を「文学」と考えているが、文学の他の分野、小説や詩では「結社」なるものは存在しない。俳句を除いて。
この疑問については、「現代短歌雁」27号所載の永田和宏の「短詩型における結社の意味」が良く答えていると思うので、簡単に引用する。

「(前略)短歌は不自由な詩型である。(中略)歌はある期間、自分で作ってみないとその作品のおもしろさ、よさというものはわかってこない。その意味では、他の文学分野のような純粋読者が成立しえない詩型である。(中略)短歌はだれにでも作り得る詩であるが、作らなければ読者にはなれない。読者の参加をまたなければ作品は完成しないが、読者は読者でのみあり続けることはできない。(中略)すなわち純粋読者という存在を持ち得ない短歌俳句という詩型が、読者を確保するために作者を抱えこまなければならないという二重性のなかから生みだした制度が、結社というものであり、それは、これまでに繰り返し指摘されてきたような欠陥をもちながらも、なおこの詩型にとっては本質的に必要な制度なのだ(後略)」

たしかに私自身も、結社に入ったばかりのころは、結社誌にずらりとならんでいる短歌を読むのはかなり苦痛で、散文ばかりを拾い読みしていた覚えがある。膨大な数のうたのそれぞれのどこがおもしろいのか、わからなかった。短歌の「よい読者」になるためには、自分で「作る苦労をする」ためのある程度の時間が必要なのだ。

読者=作者であることが結社を必要とする理由であるとすれば、「同人誌」の存在はどう考えたらいいのだろうか。「短歌研究新人賞」の、2011年度の最終選考通過作品の作者で結社に属していない作者は5割を越えると書いたが、その中には同人誌、あるいは何らかの歌のグループに属しているひとも何人かいる。

『現代短歌ハンドブック』で「同人誌」をひくと「一つの共通したイズムや主張を持つ人たちが『五分(フィフティ)と(・)五分(フィフティ)の論理』を基軸としてアンデパンダン精神のうえに自立的に編集、発行する雑誌。(中略)選歌制度を持たずあくまでも作者の自由性、自立性を大事とするだけに、(中略)同人誌は経済的負担の面からも持続が困難で『解体と誕生』の繰り返しが指摘されている」とある。

またまた水上をゆく乗物にたとえれば、結社は船長のいる大きな乗合船で、ことばも考え方も肌の色もさまざまな客が乗りこみ、新人は最初は客として迎えられるがやがて船の漕ぎ方を覚えて新しい客を迎える側に回っていく。大きいだけに急カーブを切ったり急停止することは苦手だが、多少のことでは沈まない。それに対して、同人誌は仲間同士で借りきったボートで、皆で漕ぐので速度を上げることができるが、ちょっと騒ぎが起きるとボートが傾き、沈むこともある。そして、一人一人の支払うボート代もどうしても高くなる。

といったところだろうか。

「短歌」の1月号にまるでこの「詩客」を意識したかのような、「短詩型文学の未来――新しい時代は女が切り拓く!」というタイトルの記事があり、歌人の栗木京子、俳人の片山由美子、詩人の小池昌代の三人が語り合っている。

そこに、詩人の小池昌代が「私は今、自分が詩の辺境にいるような気がするんです。すごく孤独感があるんです。一人でやっているという感じがする」「他者って必要じゃないですか、ことばが作品になっていくときに。」「だから、自分の中にある他者性に磨きをかけるしかないのです」と、仲間や目に見える読者のいないことをしきりに嘆くことばがある。

そうか、そういうときに「結社」というのはありがたい存在かもしれない、と、あらためて結社の意義を再確認させられる発言である。

暮れの片付けや掃除をしている間、いろどりとしてTVのWOWOWがついていて、毎日数時間「男はつらいよ」シリーズを順番に放映していた。私は以前は「寅さん」は好きではなくて、ヨーロッパに頻繁に行っていたころに飛行機に乗ると必ずシリーズのどれかがスクリーンに映され、それをぼうっと見ているくらいしか縁がなかった。そんな私でも、晩年の「寅さん一家」はなんとなく見知っている。

そのため、この暮れに見た寅さん一家の若さに驚いた。

寅さんが若い! さくらが若い! おいちゃんが若い! ひろしが若い!

寅さんシリーズはいわば映画を使った「寅さん私小説」だ。ちょっとした妙なきっかけから美しい女性の係わる話がはじまり、そこに寅さんがおかしく人情深く正しく絡んで、花がひらきかけて食いちがいがあって、結局寅さんはふたたび旅に出て人生を続ける。きちんと見れば、なかなかよくできた上品な映画である。

なにより、いま、日本人がもっとも欲しがっている「家族のぬくもり」が画面中にあふれている。そして、家族全員が一作ごとに少しずつ年をとって、環境も徐々に変わっていく様子が窺えて、何作か見ているうちに、寅さん一家がよく知っているとおい家族のように思えてくる。その「私小説感」「擬似家族感」に、所属結社の何十年分かの結社誌を読んだときの感覚がよみがえった。

一昨年から昨年にかけて、機会があって所属する結社の四十年ほど前からの結社誌を見た。知っているひとの作品はつい読んでしまう。そして、ああ、このころにそんなことがあったのか。なんて若いうただろう。と、結社の知人の若いころの手紙を読んでいるようなほのぼのとした気分を味わった。うたには自ずから作家そのものが表れてしまうので、べたにリアルなうたでなくても何十年分ものうたを続けて読めばそのひとの私小説を読んでいるようなものである。そして、そんな「知っているひと」が大勢いると、結社がゆるい家族のようにおもわれてくる。なるほど、短歌は長く続けることに価値があるというのはこのことか。そして、結社にいるというのは、こういうことかと、そのときになんとなくわかったような気がした。

先週の棚木恒寿の「短歌時評」を興味深く読んだ。石川美南の『裏島』『離れ島』についての評。

たとえば、

この「眠り課」一連などは、物語の形で語りながら、そこにある感覚は案外と日常の延長上のものである。フィクションの中に、日常の感覚が潜んでいる。あるいは日常のなかで経験する感情や物事が石川と言う個性を通して次々に異化されてゆくのだと言える。石川の提示する物語は、意外にも日常の感覚とゆるやかに繋がっているのではないだろうか。

という一節。私も『裏島』のⅡ〈家〉を読みながら、どこか宙に浮いていて、どこか地に足がついている、という不思議な感覚、これをどう表現したものか、と悩んでいた。〈祖母〉〈姉〉など、何人もの家族のそれぞれに石川が憑依してうたが作られていて、一首ずつは比較的すんなり読めるのだが、連作にすることによって謎が浮かびあがり、背筋がなんとなくぞわぞわしてくる。一連の枠組みを変化させることにより読者の想像力をかきたて、ときには脳の他の部分も使って読みなさいよ、と、読者にそっと挑戦状を差し出す。刺激的な二冊である。



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