短歌時評 第36回 玲はる名

他ならぬ詠み人 ~技術・非技術のお話~

 現実と理想、事実と本質といつたもののすり合せは、時評にできる仕事のひとつである。

 正月十二日に歌会始があり、天皇陛下、皇后陛下、皇室の方々を始とした歌がお披露目された。

お題は「岸」であつた。

津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる  天皇陛下

 この御歌は、東北関東大震災後に、ヘリコプターで釜石から宮古までを視察をなさつた際の印象を詠まれたものとのこと。
 言葉はすべて直接的で、他に説明を要することのない歌である。
且つ、意訳を必要とせず、誰が読んでも誤読を得ない質のものとなつてゐる。

 「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす」の初句から四句目までは、
実際の行動となつて現れたものそのものである。
特に被災者を想はれ「如何なりしと」との言葉には労わりや心痛に逸る気持ちといつたものがあり、
民に寄り添ふ今上陛下の姿が想はれる。

個人的に注目したいのは「見下ろす海は青く静まる」の下句である。
被災後の海は、濁流の海であつた時刻の姿は留めておらず、ただひたすらに青く静まつてゐるのである。
当事者である被災者は凄惨な状況もあつたであらうが、
 この歌にはその片鱗がない。

 天皇陛下と被災当事者との明らかな立場の差がここには存在してゐる。

 僕は、まさにこの表現に言葉を民へ与ふる人としての今上天皇の誠実さを目の当たりにする。

  海の色を過剰に表現しないこと。
 海の姿を現状以外に表現しないこと。(時空を歪めないこと)
 海を見たときの感情を表現しないこと。

この抑制された現実からたつた七文字のみ描かるる「青く静まる」の結句。
そう留めることによつて
ある状況のすべて引き受ける歌として成立してゐる。

嘘がない。

 嘘がないといふのはけして非表現なのではない。
和歌として必要な他者への配慮を整え、
更に、感情を抑制して事実を伝えるといふ点においては
現代短歌(子規以降の表現)に通ふものがあり、
非常に技巧的な一首となつているやうに思ふ。

詩や俳句には言及しないが、
短歌では、近年「表現・非表現」もしくは「技術・非技術」といつた話がある。

例へば、現代最も著名な俵万智の歌を

「技術・非技術」と捉へるかといふのは
一般の人からみてなかなか判断に難しいのではないだらうか。

しかし、歌を作つる人からみるとこれは明らかに「技術」が駆使された歌といふことになる。

親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト  俵万智
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり  斎藤茂吉

 俵万智の歌は読むからに平易ではある。
なので発話をそのまま三十一文字に流し込むことで成り立つてゐると読むことも可能だ。

だが、この歌は斎藤茂吉が母を背負ふ歌を連想させる作りとなつてゐる。
 (二首を比較すれば、明らかに茂吉の歌の方が短歌を読んでゐるといふ読後感となるのは、
物語の一切が省略されて、
三十一文字のすべてを「歩み」の一語に集中させる技術のためである。)

一般の人が斎藤茂吉の歌を知らなくても俵万智の歌を読み親しむことができる。
それなのになぜ数多の言葉から「トマト」を選択し、このやうな歌を作るのか。

その作為こそが技術のひとつなのだ。

「親は子を育ててきたと言うけれど」の上句は字面だけ読めば伝聞である。
そして「勝手に赤い畑のトマト」とは伝聞に対する作者の意思である。
親に育てられなくてもトマトは赤くなるとこの歌は伝へてゐる。

茂吉が母を想ふほどの愛の重さは出さず、

尚且つ、現代における親子関係と社会の緊張感を微妙に言ひえてゐる。

 俵万智の作品は読者の底辺を広げることに多くの気配りがなされてゐる。
その上で、他ならぬ詠み人の一首として他の歌人にはない言葉を模索してゐる。

 ここで留めておきたいことは、
言葉の平易さは必ずしも「非技術」ではないといふことである。

 話を戻す。

 平成二十三年の今上陛下の御製は

五十年いそとせの祝ひの年に共に蒔きし白樺の葉に暑き日の射す  天皇陛下

であつた。

 文体が今年のものととても似てゐる。「五十年(いそとせ)の祝ひの年に共に蒔きし」の上句は、
皇后様と共に白樺を蒔きし記憶のそのものが描かれてゐる。
そして、「白樺の葉に暑き日の射す」は意訳を求めず、時空を歪めず、感情を押し出さず、
暑い夏のひとときを御眼で感じ取られたといふところに価値を置くことに情があるのである。

この歌は、今上陛下の御製であり、歴史の一部でもあるが
他ならぬ詠み人の一首として、暑い夏のひとときに刻まれた夫婦愛なのではないか。

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4 Responses to “短歌時評 第36回 玲はる名”


  1. 松村正直
    on 1月 27th, 2012
    @

    「今生」ではなく「今上」でしょう。


  2. shikaryouzanpaku
    on 1月 27th, 2012
    @

    ご指摘ありがとうございます。訂正いたしました。


  3. 種田健二
    on 1月 28th, 2012
    @

    松村正直氏が当時評を下記のブログで批評されていました。

    http://blogs.dion.ne.jp/matsutanka/archives/10602579.html#comments

    ひとつだけ気にかかることがあります。

     「なつている」→「なつてゐる」
     「留めておらず」→「留めてをらず」

    と旧かなについて指摘をされていますが、「ゐ」や「を」については時代(もしくは学者)ごとに「正しい」とされる表記が異なります。これから先、「正しい」とされる表記が変わることもあるいはあり得ます。

    上記ブログで松村氏は、この時評で取り上げられている斎藤茂吉の歌の扱い方について、

     という一首を「斉藤茂吉が母を背負ふ歌」と記して、それを前提に論を進めている。この歌をどのように読むかは自由であるが、少なくとも私は、これまでこの歌をそのように解釈した文章を読んだことがない。新しい読みを提示するならば、まずその論拠をきちんと示してからでなければ、その先へ話は進められないのではないか。

    と書かれています。

    それと同じように、松村氏はなぜ自分の旧かな遣い(への指摘)が「正しい」ものであるかの根拠を示すべきかもしれません。どの説に拠ってそれを是とされているのか。

    今はみんなそうだからでは、誤りの指摘としては弱く感じられます。


  4. 種田健二
    on 2月 1st, 2012
    @

    前回時間が足りず、書き損じたことを。

     当時評で、

     親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト  俵万智
     赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 斎藤茂吉

    と二つの歌を並べ論じています。

    文芸批評の手法として、かつて組み合わされて論じられなかった作品を併置し、
    そこから新しい意味を汲み取ろうとする手法は、珍しいものでもなく、
    目新しいものでもありません。

    この時評においてそれはやや突飛に感じられたとしても、

     「新しい読みを提示するならば、まずその論拠をきちんと示してからでなければ、
      その先へ話は進められないのではないか。」(松村氏)

    そうではなく、ここにたったいま「新しい読み」の可能性が落ち、開かれたのです。

    論拠があるに越したことはないでしょう。しかし、私が理解する限り、ここは、
    すべての先行論文を読み、それを少しずつ前進させていくようような学者の集い
    とは思われません。むしろ、突飛であることの価値を許す場なのではないでしょうか。

     「少なくとも私は、これまでこの歌をそのように解釈した文章を読んだことがない。」
     (松村氏)

    と、ご自身でも認めるように、松村氏もここに学究を求めてはいません。

    そうであれば、新しい可能性をどうして否定しなければならないのか。

    提示された「読み」を新しく探っていくのが次の批評の役割です。それを拒否した
    ところに、新しい読みは生まれないでしょう。

    せっかくの可能性を摘むのは残念でなりません。

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