短歌時評 第41回 田村元 « 詩客 SHIKAKU – 詩歌梁山泊 ~ 三詩型交流企画 公式サイト

短歌時評 第41回 田村元

「近代短歌へ帰れ」

 昨年12月に、今野寿美編『山川登美子歌集』(岩波文庫)が出た。一昨年7月の富岡多恵子編『釈迢空歌集』に続く岩波文庫への新たな近代歌人の入集である。岩波文庫のような一般の読者向けのシリーズに、歌集が加わるのはとても嬉しいことだ。岩波文庫は、短歌の初心者が近代短歌に触れるきっかけとなる場合が多いだろう。私も短歌を始めたばかりのころ、一般の書店で手に入る歌集を手当たり次第読んでいたが、その多くが岩波文庫だったのを思い出す。全集や全歌集があればいいというものではない。気軽に購入できて、持ち運べる文庫版だからこそ、入口の敷居が低くなるのだ。街の大きな書店に行けば、岩波文庫の棚があり、そこで近代歌人の作品に触れることができる。そこに価値がある。特に、近代の女性歌人で岩波文庫に入っていたのは、与謝野晶子だけだったので、今回の『山川登美子歌集』が刊行された意義は大きいだろう。今野寿美による「解説・解題」も詳しく、少しずつ近代短歌のインフラ整備が進んでいくようで嬉しい。

 「かばん」2011年12月号の特集の一つは、「近代短歌から「かばん」へ」だった。「近代短歌」と「かばん」という取り合わせが面白く、どんな内容になるのだろうと、発行前から楽しみにしていた企画だ。「かばん」には、穂村弘、東直子、佐藤弓生、雪舟えまなど、小説やエッセイや詩などの他ジャンルでも活躍している歌人が多いので、短歌と他ジャンルとの国境にある雑誌のようなイメージを抱いていた。「かばん」が前田夕暮の「詩歌」の流れをくむことは知ってはいても、歴史というよりは、むしろ同時代に繋がっている雑誌だと思っていたので、今回の「近代短歌から「かばん」へ」という企画がとても新鮮に感じられたのである。

 特集は、大きく分けて、数名の執筆者による評論と、「かばん」内外の歌人へのアンケート結果の分析とからなる。評論では、大松達知の「児童の溌剌さと、稚気と、新鮮味」に注目した。前田夕暮の歌集『虹』の序にある「実際のところ私は児童の溌剌さと、稚気と、新鮮味と、あらゆるものに対する食欲と、驚異とを欲している」という言葉に、「かばん」精神の真髄を見い出し、現在の「かばん」の歌人の次のような作品を上げ、

電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ 東直子『青卵』
「殺虫剤ばんばん浴びて死んだから魂の引取り手がないの」 穂村弘『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』
なりたくて 縦に裂けたる青年の胸をさかのぼりゆく魚に 佐藤弓生『眼鏡屋は夕ぐれのため』
月曜の朝の電車は生臭く、淋しくならない程度に揺れて 千葉聡『そこにある光と傷と忘れもの』

「もし、近代短歌から「かばん」の歌人たちが摂取したとすれば、こうした、いわば〈ぶっとんで〉いて、しかし繊細に時代の先端を行こうとしてきた姿勢そのものにあるのではないかと思う」と述べている。現在の「かばん」の歌人たちの特徴を、前田夕暮の歌業を通じて描き出したユニークな評論だった。

 一方、アンケートは、主要な近代の歌人二十名から「春」を詠んだ歌を一首ずつ取り上げ、作者名を伏せた上で、好きな歌二首と好きでない歌一首を選ぶという形で、「かばん」内外に対して実施され、筑井隆が集計を、山田航と石井浩が集計結果の分析を行っている。山田航は、「かばん」での支持が高くそれ以外が伸びなかった歌として、

紫のいたましきまで一人(ひとり)踊るスカートの陰影(かげ)に春はくれゆく 北原白秋
銀の鈴金の鈴ふり天上に千の小鳥は春の歌うたふ 九条武子

 の二首を、反対に「他結社」の支持が突出して高かった歌として、

春の水みなぎらひつつゆく時に死にたる鯉(こひ)はかたよせられぬ 土屋文明
いちはつの花咲きいでゝ我が目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規

 の二首を上げ、「かばん」の歌人たちの目を引いたのが、ともに非アララギ系の歌人であり、一方、「他結社」の人気が高かったのが、「根岸短歌会−アララギ系」の歌人であることを指摘している。これは、なかなか興味深い結果だと思う。アンケートの取り方や分析の仕方によっては別の結論もありうるのかもしれないが、山田が「今回の企画の最大のテーマは、印象ではなくデータで「かばん」の個性を特徴づけられるのかということだった」と言うように、印象論を排し、近代短歌を鏡として「かばん」の個性に迫ろうという、とても有意義な特集だったと思う。

 ただ、特集を読む前に、「近代短歌から「かばん」へ」というタイトルから感じた期待とは、かなり異なる読後感だったというのも正直な気持ちである。「近代短歌」と「かばん」という二物衝撃から、私はもっと〈ぶっとんで〉いて、ラディカルな何かを期待していたのかもしれない。

 近年、前衛短歌の歴史的な位置付けが進んで来ており、その結果として、その向こうにある近代短歌の見晴らしが良くなって来たように感じる。「短歌」の大型企画の「共同研究 前衛短歌とは何だったのか」が終了したのは今年の1月号だったが、その同じ号でシリーズ企画「若手歌人による近代短歌研究」が始まったのは、編集者にも同じような思いがあるからではないだろうか。

 私は、現代の歌人が近代短歌への回帰を目指すことによって、新しい表現が生まれてくることがあるのではないかということを十年くらい前から考えていて、書いたこともある(「短歌往来」2002年7月号「若い世代の「保守化」について」)。なぜなら、歴史上の変革は、復古の形をとって現れることが多いからなのだ。短歌史を遡れば、正岡子規の和歌革新で重要な役割を果たしたのは万葉集だったし、世界史に目を向ければ、ルターの宗教改革の中心命題は聖書への回帰であり、ルネサンスだって古代ギリシャ・ローマ文化の復興運動だったのである。

 だから、「近代短歌へ帰れ」という合い言葉で、とんでもなく新しい短歌が生まれて来てもいいのではないか。そんなことをずっと考えていたので、「かばん」の特集に過剰な期待を抱いてしまったのかもしれない。

作者紹介

  • 田村 元(たむら はじめ)

1977年 群馬県新里村(現・桐生市)生まれ
1999年 「りとむ」入会
2000年 「太郎と花子」創刊に参加
2002年 第13回歌壇賞受賞
2012年 第一歌集『北二十二条西七丁目』刊

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