短歌時評 第46回  花鳥 佰(かとりもも)

被災圏からの発信

4月1日(日)に仙台文学館で「震災詠を考える~被災圏からの発信」という短歌の集まりがあった。「路上発行所」(代表 佐藤通雅)主催、「被災圏からの発信」実行委員会協力、仙台文学館共催で、13時から15時半の2時間半。

二部から成り、第一部では東日本大震災の三人の被災者の自作朗読と短いスピーチが、第二部では「新聞歌壇と震災詠」のタイトルで河北新報の選者、花山多佳子と佐藤通雅の対談が行われ、その後に「自由発言」のコーナーが20分ほど設けられた。総合司会は桜井千恵子。

最初の計画では百人ほどの聴衆を予定していたようだが、実際には二百人以上の申し込みがあり、会場の都合上申し込みを断らざるを得ない事態だったという。首都圏からも30人ほどの出席者があったが、大多数が「被災者」らしく、「わがこととしての震災詠」の空気が強かった。

第一部の三人の自作朗読者は名取市美田園で被災した斉藤梢(コスモス)、名取市閖上で被災した柿沼寿子(波濤)、気仙沼市で被災した小野寺洋子(熾)。それぞれ自作10首の朗読の後、被災情況、その後の暮らし、作品の背景などを手短に語った。

あの道もあの角もなし閖上一丁目あの窓もなしあの庭もなし       斉藤 梢
さへぎるものなくて視線は海に入(い)るどこに消えたかひとつ集落        同

斉藤は被災後の1週間を名取市の避難所にすごして、恐怖と絶望にうちひしがれ、思いが声にならずにいるときにうたが定型に乗って次々に湧き出て、それを書きとどめた。見るもの聞くものがすべて「死」と深く結ばれていて、その生と死の境にある自分に韻律のままに短歌の生じる感覚に、戦地で死に真向かって、宮柊二に『山西省』のうたが湧きおこったにちがいないと確信したという。

一首目、閖上一丁目の見なれた町が、そして家々がすべてかききえてのっぺらぼうになってしまった悪夢のような現実。二首目、今までは建物に遮られて見えなかった海が思いがけず近くすぐそこに拡がっている。ここにあった集落は、人々は、暮らしは、日常はどこに消えてしまったのか。

屋根の上にながらへて泳ぎ来し人の寒かりしとのみ言へり小声に     柿沼寿子
燃えながら漂ふ街か七丁目の場所にて燃ゆるは別の町とぞ           同

柿沼は壊滅的な被害を受けた閖上在住で、家も仕事場も友人もすべて失くしたと語る。着のみ着のままで避難して、ポケットにメモ帖とボールペンのあるのに気づき、「思い出したくないあまりに意識的に忘れてしまうのをおそれて」けんめいにメモをとったという。ことばを綴ることによって正気を保っていた自分に気づいたともいう。「あと1時間で日の出だ」「自衛隊がこちらに向かった」というほんのわずかな言葉に希望をつなげることができ、「ことば」はすばらしい力を持っていると感じた、「ことばにはたましいがある」とはよく聞くが「そのたましいは善なるたましいに違いない」と、心にしみる言葉を残した。

一首目、「その場」にいた人にしか言えないことば、聞けないことば、書けないことば。二首目、閖上七丁目でいま燃えている「町」は他から流れてきた「町」だそうだ。それでは、七丁目の「町」はどこへ行ってしまったのか……。

小雪降る小川に髪を洗いいし若者のあり魂の澄むか   小野寺洋子
夏草に埋もれかけてる船体の漏らす吐息かこの蒸し暑さ   同

小野寺の気仙沼の住居は山手にあって津波の被害は受けなかったが、家がほぼ全壊に近い被害を受けたという。給水が途絶え、一輪車で毎日沢水をもらいに行くうたから始まった。一首目、集落の者たちが洗濯に、食器洗いに利用している小川に雪の降る日に行ってみたら、凍るような空気の中で青年が髪を洗っているのが、雑然とした非日常の日常のなかで神々しいまでに美しく見えた。二首目、家や車は壊れて「瓦礫」になってしまうのだが、「船」だけは水の上に浮いてしまうのが逆に悲惨で、田圃に入り込んで身動きできずにいる船体の悲鳴、吐息が聞こえるようであったという。

第二部では、2011年の5月から7月の河北歌壇に実際に掲載された短歌に沿って話がすすめられた。

「河北新報」は1897年創刊の、宮城県を中心とする東北6県を発行区域とする地域ブロック紙で、仙台市に本社がある。今回の震災では沿岸の支局の流失、本社組版サーバーの倒壊、販売員十数人の犠牲者を出すなど甚大な被害を被ったが、一日も休むことなく発行を続け、その奮闘ぶりは『河北新報のいちばん長い日』として昨年10月に出版されて反響を呼び、今年、2012年3月にはテレビドラマ化された。

震災後、歌壇は5月1日まで休載になった。再開後しばらくは被災の軽度な読者の投稿が多かったが、一カ月、二ヶ月経つうちに家を失くした、家族、親族、友人を失くした、という、「死」と隣り合った重度の被災読者の投稿が増えてきた。そして運悪く命を落としてしまった死者と自分を重ねて詠ったものが多く目についた。と、佐藤通雅が震災後の「河北歌壇」の経緯を説明した。震災直後はポストの口にガムテープが貼られたり、投稿手段を欠くひとが多かったりで一定期間投稿数が減ったが、その後はどんどん増えて、震災後にはじめて短歌を作るようになったとおぼしき投稿者もかなりの割合でいるそうだ。

地方紙の歌壇の選者は投稿者ひとりひとりをイメージしてうたを読んでいるので、再開後しばらく常連の投稿者たちのうたが送られてこないのを心配したが、待つうちに来るようになって安心した。被災後すぐにはことばが出ないひとが多かったようだ。と、花山多佳子がつづけた。震災後の投稿歌には生死を賭けたような力作が多く、〈選〉をするのが辛かった。すべてのうたを載せたかった。と、花山と佐藤がこもごもに言うのが印象的だった。

ふるさとの級友と立つ野辺送り一人送れば一人分の過疎
                2011年3月6日(石巻 木村譲)

震災の見舞と電話で孫唄ふ曲はやつぱり「森のくまさん」
                5月1日(太白 沢村柳子)

妻の名をこころに叫びさがしいる巨大津波の瓦礫のなかを
                5月22日(石巻 石の森市郎)

3月6日の木村譲のうたは震災前のものだが、現在読むと震災の予兆のように感じられる。「一人送れば一人分の過疎」に、すでに過疎化していた土地が震災によってさらに打撃を受けただろうと想像されていたましい。二首目は歌壇再開後最初の掲載歌のうちの一首。「やつぱり」に、孫の歌声に「日常」を感じた喜びが出ているとの評。三首目は歌壇常連の八十代の投稿者の作品で、しばらくぶりの投稿に喜んだものの内容に胸をつかれたと選者の花山はいう。

ミニカーを並べたる後寄せ集め津波が来たと幼子遊ぶ
                6月12日(青葉 照井眞知子)

わが生死しばし取沙汰されいしをひとの葬儀に行きて知りたり
                6月26日(気仙沼 北沢松子)

この人も無事だったのかと擦れ違うしばらくぶりの朝の散歩に
                7月24日(石巻 庄司邦生)

一首目、まだ思いをことばにできない幼児たちも被災したのだ。無邪気に津波ごっこをしている彼ら、彼女らが5年後、10年後に「ことば」によって今回の体験を語り出したら、また新しい震災詠が作られるだろうと佐藤通雅が言うのが心に残った。二首目、こんな思いをした方たちもたくさんいらっしゃるだろう。まさに「生」と「死」が隣りあっていた。三首目、顔だけ見知っていて、会釈をするくらいの関係のひとと久しぶりにすれちがって、お互いにほっとする。同じ経験を分かち合ったひとの間に生まれる相手を思いやる心が見える。

4月1日(日)はちょうど河北歌壇の掲載日だったので、当日の歌壇を読んでみた。

暫しの間被災の事は忘れよと天は雪にて瓦礫野消しぬ
                2012年4月1日(宮城・山元 島田啓三郎)

流されし踏切なれど右足は咄嗟に動きブレーキを踏む
                同(宮城・山元 鎌田一尾)

一首目は佐藤通雅選。〈評〉を記す。「町が一瞬に消え果ててだだっ広くなった平野に雪が降る。あたかも「被災の事は忘れよ」というがごとく。天が地を浄化してくれる。特に下句表現がたくみだ。二首目は花山多佳子選。〈評〉。通る電車も踏切ももうない。でも身体は「踏切」を記憶していて、思わずブレーキを踏む。在ったことを強く意識させられる瞬間をキャッチした。

大震災から1年あまりが経過して、すこし日常が戻ってきたのが見えるが、その日常も「非日常の日常」であることがわかる。

東日本大震災は地震と津波だけでなく、福島の原子力発電所の爆発という大事故による大勢の被災者も生んだが、原発の事故がまだ収束していないので今回の集まりには福島の被災者のうたを含めることができなかった、と、佐藤通雅が会の最初に挨拶をした。その福島の被災地の関係者として、浪江町に実家のある三原由起子と大熊町に住居があるが避難したまま帰れないでいるという佐藤祐禎が出席していた。佐藤は『青白き光』という、原発を詠んだ多くのうたを含む歌集を刊行している(『青白き光』いりの舎文庫として再版)。三原由起子は「震災後短歌との向き合い方がわからなくなったが、いまは原発の影響についてずっとうたい続けていかなければならないと思っている」と発言し、佐藤祐禎は原発の構造等について説明し、「自宅にはいつ帰れるかわからない、付近は動物のいっさいいない場所になってしまって、これからもそのままなのだろう」と辛い現実を述べた。

自由発言コーナーでひとりの女性が立ちあがり、「私は福島第一原発の建設時にその図面を何百枚も描いた、当時は日本の発展のために原発は安全で必要なものと言われ、そうおもっていた。ごめんなさい」と頭を下げたのが強く印象に残った。当時大勢の人たちが同じように思い、誇りをもって原発建設のために働き、いまは苦しい思いをしているのにちがいない。

「日常のうたの力が落ちているような気がする」と最後に花山多佳子が発言した。震災の影響が毎日の生活に深く入りこんでしまって、自然を描写するにも食物をうたうにも、以前のように自然体でうたにできない、のであると。

川上弘美が「群像」2011年6月号に発表した「神様2011」を思い出した。川上は1993年に「神様」を発表しており、両者は「くまにさそわれて散歩に出る。」という冒頭も「悪くない一日だった。」の末尾も、そして「くまと一緒に川原に散歩にいって、くまのとった魚をもらい、帰る」というストーリーもまるで同じだが、「2011」には「あのこと」の影響が行動のすみずみに見えるところが決定的にちがう。「防護服をつけずにふつうの服を着て肌をだして散歩に出るのは〈あのこと〉以来はじめてである」。「今は、この地域には、子供は一人もいない」。といった具合に、日々の日常の細部に「あのこと」が影響している。「あのこと」とは、もちろん東日本大震災による福島の原発の事故である。日常は続くのだが、その日常は「あのこと」によって大きく変化してしまったのだ。

短歌は基本的に「日常」をもとにして作る。いま作られている短歌にも、作者はそれと気づかぬうちに震災が大きく影響しているに違いない。今までにもたびたび「日常の変化」はあったはずだが、今回ほど大きく、生活に深くかかわる「日常の変化」を経たあと、わたしたちの短歌はどのように変わっていくのか。

「震災詠」について考えるために出席した集まりだったが、最後になって、今回の震災はすべての短歌作者、短歌作品に影響するのだとわかり、慄然とした。


「ありがとうございました」

 予定しておりました6カ月、6回が終わりましたので、第46回をもちまして、花鳥の「短歌時評」の執筆を終えさせていただきます。拙文をお読みいただきまして、ありがとうございました。

 紙媒体の編集者をしていましたが、Web媒体に係わるのははじめてで、インターネットの最初から言われている「いつでも」「どこでも」「だれでも」「すぐに」の特長に加えて、「可変な量」を実感して感動いたしました。文字量が掲載可能であるだけでなく、内容の種類、量もいつでもいくらでも変えられるのはWeb媒体の大きな利点だと思います。

 評論家の加藤典洋は『3・11死に神に突き飛ばされる』(岩波書店)の「祈念と国策」の章の「注6」に、次のよう書いています。

 「(前略)わかったことは、インターネットの言語圏に身を置くと、ますます、紙媒体のメディアの狭さ、公平性の欠如といった問題が、目につくようになるということである。このことは、一度、インターネット言語圏に身を置くと、もうそこから紙媒体の世界に舞い戻ることは、ほぼできなくなることを意味している。それほど、コントロールされない言論空間の風通しは、よい。確度と密度には欠けるが、情報の飛行距離、言論圏の広さにはただならぬものがある。(中略)

 新しい電子活字メディアの世界には広大な可能性がある。とはいえ、まだまだその影響力は微々たるものである。この未熟なメディアに固有のいろんな問題がある。当面考えられるのは、紙媒体と電子活字媒体の両メディア相互の関係性をもっと密にし、そこに生まれる可能性に目を向けるという方向だろう。大きな課題をいま私たちはつきつけられている。(後略)」

 加藤は基本的に報道や思想的言論の発信について書いていますが、加藤の挙げるかなりのことは俳句の、詩の、そして短歌の世界にもあてはまるでしょう。

「詩客」が発足してもうすぐ1年になります。ここしばらくのうちにその足腰がみるみる強く逞しくなってきたのが目に見えて、頼もしく思っております。「詩客」がますます広く、鋭く、公平に、公正に、頑健に成長していきますように。

ところで、私たちの作品や文章が「詩客」のサイトに掲載されるまでに、何人もの方々の手を煩わせています。現に、この文章は、第46回「短歌時評」の最後に置くべきだったところを、私がうっかりしていて今、このように改めて何人かの方に仕事をしていただいております。詩の、俳句の、短歌の発展のために、無償で毎日仕事をしてくださっている方々に心より感謝いたします。

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