短歌時評 第51回 田中濯

シンガポール陥落、あるいは類型歌について

 今年は茂吉生誕130年、あるいは啄木没後100年という短歌史的に区切りのよい年である。そこで、角川短歌5月号は総力特集と銘打っての茂吉大特集であった。鼎談、論考ともに量を確保したうえで、質の面にも配慮を見せている。茂吉にはこれまで大量の研究があり、何を言っても二番煎じの誹りを免れ得ないところがある。そこを特に配慮したと思われる「各系譜の中での茂吉、その接点と違い」という柱のもとでなされた論考五本が新鮮であった。北原白秋や近藤芳美、塚本邦雄などと茂吉を比較したもので、茂吉を脇に置いて論じているところが特徴である。その中で、永田淳による「戦争詠の自由度」と題した斎藤史の論考に注目した。

罪悪のほろびむとする轟音にシンガポール落つシンガポール落つ / 斎藤茂吉
浄め雪降りしあしたの夜にしてシンガポール陥ちたり陥ちたりと相呼ばふ声 / 斎藤史

永田は、太平洋戦争初期の日本軍によるシンガポール陥落を歌った二首をならべたうえで、茂吉は「政府の意向、国民の期待に添って」歌を作ったが、史は「ある程度自由に、自らの心情や身辺から歌い起こす」ことができた、と述べる。史の歌では、シンガポール陥落は「歌の背面」であり、リフレインも茂吉のものとは異なり「幽やかなイメージ」がある、とする。だから史のほうが優れている、とまで永田は書いていないが、歌として一見したところ史の歌により意匠がある(自由がある)、というところまでは同意したい。というのは、私の意見はおそらく永田とは異なり、この二首はほとんど違いのないただのヴァリエーションである、というものだからである。いずれにせよ、二人の斎藤をシンガポール陥落の歌で比較する着目点は優れている。以下ではもう少し、「シンガポール陥落」の歌について考えてみたい。

まずは「シンガポール陥落」がいかなるものであったかを簡単に述べる。極論を言えば、「シンガポール陥落」は、太平洋戦争における帝国陸軍のほとんど唯一の戦略的大戦果であった。当時シンガポールはイギリスの大根拠地であり、約7万人の兵を擁する難攻不落の大要塞であった。現在の在日米軍の兵数が全て合わせて4万人弱であることを考えてみてもよいだろう。帝国陸軍はその「落とせるはずのないシンガポール」を落としたのである。上手くイメージできない向きには、織田信長の「桶狭間の戦い」を思い浮かべてもらえればよい。どちらも、戦術的蛮勇の生んだ一種の「奇跡」である(と私は考えている)。

 それだからこそ、日本人は熱狂してこれを歓迎した。もちろん、歌人も多くは熱狂して歌を作った。これは二人の斎藤に限らないのである。歌人はこぞって、「シンガポール陥落」を歌った。歌わないことなど、ありえなかったのである。

すめろぎの神のみいくさ神わざにたたきふせたり侵略国イギリス
大東亜永遠に清く保つべし今日の感激を我ら忘れず       / 土屋文明

シンガポール遂におちぬと夜ふけて雪凍りたる道を帰りぬ
シンガポール陥ちしといへばいちはやき勝鬨きこえ夜半の道ゆく / 佐藤佐太郎

例えばこれらの歌はどうだろう。文明の歌は茂吉に酷似し、佐太郎の歌は史に酷似してはいないだろうか。「シンガポール陥落」は二月十一日の「紀元節」、すなわち「神武天皇の即位の日」という大日本帝国最大の祝日に達成されるよう計らわれ、実際には二月十五日に成った。日本本土は厳冬であり、雪も降っていたかもしれない。また、永井荷風はその日記に当時の様子を「酔漢到処(いたるところ)に放歌嘔吐をなす」と記している。「シンガポール陥落」と「雪」、「祝祭」が結びつくこと、そしてそれが天皇のもとで「浄い」「清い」行いであることは、当時の揺るがぬ「お約束」であったのである。すなわち、茂吉・史・文明・佐太郎、これら偉大な歌人たちの「シンガポール陥落」の歌は、ただの類型歌に堕している、といわねばならないのである。

 おそらく、これら類型歌と比較すべきは次の歌ということになる。

しんがぽうる落つ。汽車を降りまた乗り継ぎて、浜名の波の夕深き 見つ / 釈迢空

この歌には類型やキーワードで括られるものは存在しない。おそらくは動揺に由来する内省と、それを照射する自然のありようが表現されている。そこには暗い予感さえ漂っており、ほとんど「予言」として機能しているかに思える。茂吉と迢空こと折口信夫はほぼ同世代であり、この圧倒的な歌の差を世代論で片付けるわけにはいかない。類型を脱しえた力は、まずは単純に、釈迢空の個の力に由来するものと考えるべきであろう。

さて、やや強引であるかもしれないが、「シンガポール陥落」を現在の状況に当てはめてみよう。もちろん、相当するのは「東日本大震災」「福島第一原発事故」である。これらについては、類型歌の流布が凄まじい。「シンガポール陥落」のように、いくつかのキーワードや限られた情動で括られてしまう歌が多くを占めている。われわれが目指すべきはもちろん釈迢空的歌である。「シンガポール陥落」で先人たちの多くがとった振る舞いを、今度こそ避けるべく努力すべきであろう。戦前の思想統制も凄まじいものであったろうが、現代の同調圧力も、それが高いステルス性を持っている以上、また同様に凄まじいというべきである。そこで頼るべきは、まずは個の力である。あるいは、「シンガポール陥落」の歌群を眺めて、歴史に学ぼうとする態度であろう。

戦後に至り、ふさわしくないものとして葬られた歌群に、現代の有り様を見るという立場はやや皮肉が効きすぎているかもしれない。しかし詠み手としても読み手としても、勇気を奮って詠むべき歌を詠み採るべき歌を採るべきだ、と述べるとき、立ち返るべきは戦中の短歌なのである。なぜならば、ひとつは此の度の震災・原発事故は歴史の転回点として、対米宣戦およびその敗北と相似形にあると比定できるためである。もうひとつは、そのような歴史の転回点では価値の基準が混乱するためである。何が良い歌か?という最も原理的な問いを見失わないようにすることが大切である。この問いを問われたとき、他人のロジックではなく、どこまで自身のロジックに拠りそうことができるのか?八方美人的態度を採るとして、いったいどこまで自身も他人も欺き続けることができるのか?そのあたりのシビアな判断、あるいは覚悟を、各人がしておいたほうが良いと、私はいま考えている。

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