短歌時評 第54回 長谷川と茂古

「自由人・西村伊作」

「短歌往来」6月号に掲載された古谷智子氏の評論、「家族と革新―晶子と伊作をめぐって」を読んだ。与謝野鉄幹・晶子と交流があった人たちのなかでも異彩を放つ、西村伊作のことが書かれている。濃尾地震を経験した伊作と、関東大震災を経験した晶子の生い立ちから、共鳴し合う二人の精神の軌跡を描き出し、東日本大震災から一年が過ぎた今、復興に向けての鍵を探る、というものである。キーワードは「家族」。

ここでは、その評論に登場する西村伊作について、ほんの少し紹介しておきたい。

西村伊作は画家、建築家、教育者、陶芸家……、と枠にはまらない自由人。しかも、ハンサム。幼い頃、近所の人に「この子がもし女であったら千両に売れるんだがね」と言われたようだ。『きれいな風貌―西村伊作伝』(黒川創、新潮社)には、シンガポールで撮ったものなど貴重な写真が載っている。興味のある方はご覧いただきたい。オススメは13歳のときのものである。同年の友人たちと一緒に写っているため、当時にあってその風貌の破格ぶりが、より分かりやすい。幼い頃から、西洋式の生活に馴染んでいた伊作。では、一体どうしてそのように育てられたのか。それには、まず明治維新という大きな時代の波がある。伊作の父・大石余平は、和歌山は新宮の名家――武士ではないが、代々学問をおさめ、医者や学者などを輩出し、天保の頃から漢学塾を開いていた――に生まれ、漢籍一辺倒の勉強をしてきたのだが、廃藩置県・学制といった新時代の到来に、新しい規範を海外の知識に求めた。のちに大逆事件に巻き込まれて亡くなってしまう弟の大石誠之助(伊作の叔父)を、大阪で英語学、そして京都同志社へ遊学させたのは、英語をはじめとする洋学の必要性を痛感していたことの現れだという(『大正の夢の設計家』(加藤百合、朝日新聞社))。誠之助は、その後アメリカへ渡航。住み込みで家事の仕事をしながら学費を稼ぎ、医学を修めた経験は、伊作に大きな影響を与えることになる。余平にとっては、弟に学ばせた洋学が、自分の死後、息子伊作に受け継がれることになったわけである。誠之介も、地震で親を突然失った甥に、兄から受けた家族としての愛情を親代わりとなって注いだ。

また、伊作は育児にも関心が強かったようだ。誠之助が本場仕込みの西洋料理やデザートまで作るのを見ていたからだろう、「男子厨房に入るべからず」なんて屁の河童。家庭の食事をあれこれと研究し、妻に作り方を教え、グラタンやコロッケなど子ども向けの料理も作ったりしている。一緒に遊ぶことはもちろん、子どもたちの健康管理まで気を使うイクメンでもあった。

伊作が欧州とアメリカを旅したのが24歳の1908年、晶子が鉄幹を追ってフランスへ出発するのが1912年。佐藤春夫を案内役として、西村家のある新宮を晶子が初めて訪問したのが1915年である。海外を見聞した経験と知識、理想へのこだわりを持って、このあと、与謝野夫妻と伊作は一大事業、文化学院創立(1921年)へと動き出す。文化学院での晶子の授業については、こんな記述がある。

<毎週の作歌の時間のあと晶子は、生徒の歌稿に一首一首細かく朱を入れて講評した。作者である生徒自身が意識していなかった深い意味を歌の中に見出して激賞し、相手を驚かせ、かつ奮い立たせることがしばしばであったが、一方、気に入らぬ歌には、一首全体にかぶさるほどの激しい×をつけて、生徒を震え上がらせた。>

(前掲書『大正の夢の設計家』)

文化学院を巡る人々や、大逆事件前後の時代について、次から次へと人がつながってゆく面白さがある。伊作の叔父、大石誠之助についても、彼をモデルとした小説『許されざる者』(辻原登、毎日新聞社)があるが、ノンフィンクションでも十分過ぎるほどドラマティックな人生なのだ。

終わりに、古谷氏の評論から引いておく。

<過剰な文化の中で、団欒という言葉が失墜しほとんど無効になった感が強い。しかし、去年の震災以来、その位相がやや違ってきた。家族の定義の拡張、家族間の葛藤をもを含めた新たな日常の有効性、革新の足場としての家族が、近代とは違う全く新しい視点から再考されていい。>

近代とは違う、新しい視点から「短歌」を考える、とも読める。それは既に始まっているのかもしれない。

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