短歌時評 第64回 齋藤芳生

私たちの「戦場」~染野太朗第一歌集『あの日の海』を読む~

あえて、「戦場」という言葉を使いたいと思う。
私たちは、現代の日本という「戦場」を生きている。そして、戦っている。

終電に中吊り広告を見上ぐれば当て字のような「戦争」「戦後」 30
肺胞に届けばやがて雪よりもしろい根を張るチョークの粉か 35
白シャツの襟に染み無しタリーズの店員は皆「フェロー」と呼ばれ 144

 それは、かつて私たちの祖父母が経験したような、銃剣を手に泥まみれで走り回るような「戦場」ではないし、血を流して殺し合うような「戦い」でもない。現代の「戦場」は、一見実に平穏で、豊かだ。街は清潔で、コーヒーショップでさわやかに接客する店員たちの制服には、染みひとつない。電車に揺られながら中吊り広告を見上げる人々は静かである。「戦い」の気配など、どこにも感じられない。
しかし、教師が毎日の授業の中で避けようもなくチョークの粉を吸い込んでしまうように、目に見えない何かが音も立てず、じわじわと、いつの間にか私たちの心や身体に入り込んで来る。自覚のないままに日々を過ごしているうちに、自分も、周囲の人々も深く傷ついていることに気付く。しかし、気づいた時にはもう、逃げられない。抗わなければ、あるいはじっと耐えなければならない。
何とも気味の悪い「戦場」であり、実に消耗する「戦い」なのである。

おそらく染野太朗という歌人は、自らも心を病み、また教師として同僚や生徒たちをはじめとする人々と関わる中で、自分たちがそんな「戦場」に否応なしに立たざるを得ない、そして戦わざるを得ない、ということに気づいてしまったのである。そしてそれを、短歌という形で表現しようとした。『あの日の海』は、そんな歌集なのではないか、と私は思っている。そして、やはりそのことにうすうす気づいていた、あるいははっきりと自覚していた多くの人々が強く共感したのである。

吉野家の豚丼にそっと添えられて兵士の眼冷えきっており
豚丼の飯に埋もれた銃弾を箸につまみて店員を呼ぶ
銃弾を箸につまめば店員が銃を差し出す「それ〈当たり〉です」

現代の日本社会と人々の生活を象徴するような「吉野家の豚丼」。食べようとして気づいた、「兵士の眼」。「兵士」とは、作者と同じこの「戦場」で戦い、その果てに犠牲となった誰かではないのか。遠くない将来に、自分のそれも「ひえきって」誰かに供されるかもしれない。たまたま今回は自分でなかった、というだけである。周囲の客にも、「兵士の眼」は「添えられて」いるのだろうか。そして当然のようにそれを食べているのだろうか。食べているのかもしれない。そして自分も、当然のように食べる客の一人になっていくのではないか。
「飯に埋もれた銃弾」は、「<当たり>」なのだという。「店員が差し出す」「銃」で、何を、誰を撃てというのだろう。そもそも、撃たなければいけない理由は何だろうか。同じ店の中にいるマナーの悪い客を撃つか。職場でむかついたあいつにするか。やっぱり今朝電車の中で自分の足を踏んで謝りもしなかった、あいつか。ああまて、もしかしたら、自分自身を撃てということじゃないのか?――危惧、と呼ぶにはあまりにも恐ろしい危惧である。
これらのぎょっとする歌の数々は、決して妄想でもなく、奇を衒ったのでもない。何の問題もなく時間が過ぎていくように思える私たちの日常生活の中に隠れていて気づかない、あるいは気づかないふりをしている「戦場」と「戦い」への恐怖だろう。「戦場」を生きている、自身を含む全ての人々を見つめた上での秀逸な比喩であり。現代社会に対する強烈な批判である。

先月7月15日、アルカディア市ヶ谷にて批評会が行われた染野太朗の第一歌集『あの日の海』は、私たちは明らかに「戦場」を生きているのだ、というその証左を、誰もが通り過ぎてしまうような日常生活の中から鮮やかに、時には不器用に、あるいは辛辣に、私たちに差し出して見せる。それら一つひとつが強い説得力をもって私たち読者の胸に迫るのは、作者もまた「戦場」の中で精一杯戦い、疲れ果ててしまった一人だからだろう。この歌集そのものがまた、染野太朗の「戦い」のひとつの結晶なのである。

作者紹介

  • 齋藤芳生 さいとう よしき

歌人。1977年福島県福島市生まれ。歌林の会会員。歌集『桃花水を待つ』角川書店

 半年間、「詩客」の短歌時評を担当させていただきました。今回が最後となります。
 時評を書くのは全く初めての挑戦であった、ということもあり、編集の皆様方には毎回大変なご迷惑をおかけいたしましたが、時評を書くことで、これまでの自分とは少し違う切り口で短歌という表現形式について考えることができました。まことにつたない時評ではありましたが、お目通し下さいました読者の皆様にも心より御礼を申し上げます。

ありがとうございました。

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