短歌時評 第70回 錦見映理子

口語でなければ言えないもの、そして混ぜたらどうしてだめなのか

これをお読みの歌人の中に、自分の歌はすべて完全な口語または文語のいずれか一方だけで作られている、とはっきり言える方はどのくらいいるでしょうか。
また、もし手元に歌集があれば、何冊かめくってみて下さい。その中に、口語と文語が一首の中に混ざっている歌は、どれだけあるでしょうか。たぶんすぐに見つけられると思います。特に、文語と口語の両方を使用している人の歌集の多くから、混ざり合った作が少なからぬ数、見つけられます。
ここ数日、仕事が終わると本棚の前に座り込んでずっとそんな調査をしていたのは、「短歌研究」九月号の、中村稔vs永田和宏特別対談「詩のことば、短歌のことば」を読んだせいでした。

この対談は、「ユリイカ」二月号での、永田和宏さんの歌に対する中村稔さんの批評を受けてなされたものです。「ユリイカ」での中村さんの意見の核は、永田さんの以下のような口語と文語の混じった作を容認できない、というものでした。

立っていることも忘れているように青鷺立てり雨の加茂川      永田和宏『日和』
巡回映画鑑賞会などありし頃の路地には闇がうずくまってゐた

中村さんはこれらをそれぞれ、

立っていることも忘れているように青鷺が立つ雨の加茂川
巡回映画鑑賞会などありしころ路地には闇のうずくまりゐたり

と改作して見せ、「感興において違いがあると思われない」と述べています。「私には口語短歌は口語で歌いきってもらいたいし、文語短歌は文語で貫いてほしいと思われる。永田さんの前記の作における文語と口語の混じりは恣意的であって、(略)必然性に乏しいようにみえる。」

これを受けた「短歌研究」九月号での対談でも、中村さんは厳しく問題提起をしています。永田さんの「作っている人間の実感からすると、全部口語では定型はもたないという気がする」という発言を受け、「そのために口語短歌はかなり中途半端だという感じがある」と中村さんは言っています。

「僕は文語の短歌のほうが好きなんです。口語だと非常に軽くなって、日常些末に堕ちてしまう。文語表現における精神が高揚したというか緊張している、そういう感じが口語が入ってくると、精神が弛緩しているようにみえる。」
「(現代詩の口語に比べて)短歌の人が口語を入れてくると、定型に寄りかかって気楽に口語を入れているのではないかということを感じる」

とこれまた耳が痛い発言なのですが、中村さんは口語短歌はつまらないと単純に述べているわけではありません。文語ののち口語で詩を書くようになった詩人の目から見て、歌の中でどのように口語が使われているか、むしろ歌人よりずっと関心が深いように思われます。

「口語は文語に比較して非常に表現力が乏しい」「そういう(文語の)豊かさを捨てて口語が入ってくるということは、口語でないと表現できないような、本当に現代的な感情、情緒というものがあるのかもしれないと思うのです。」
「現代短歌であれ、現代詩であれ、やはり口語でなければ言えないものがあるのでしょう。そうでなければ、現代詩をもっぱら口語で書いている意味がありません。ただ、歌人のばあい、どこまで厳密に考えておやりになっているのか、かなり安易に口語を入れているのではないかという疑問をもっているのですね。」

これに対して永田さんは「今、若い人の短歌に完全に口語でやっているのがありますが、それとはちょっと(筆者註・自分の歌は)違うと思っています。定型というものは、そもそも文語でないともたないだろう」と答えています。永田さんは「基本は短歌というのは文語」だが、「生な感じというのを文語脈の中で何とか生かせないか」と思って口語をたまに使うと説明していますが、これは少し、中村さんを説得する言葉としては弱いように思います。

なんとかもう少し中村さんに反論できないでしょうか。まずは、「口語でなければ言えないもの」が短歌にもあるかどうか、探してみます。

冒頭で述べたように、現在多くの歌人が、文語と口語の両方を使って歌を作っています。
「短歌研究」昨年四月号における「口語と文語、新仮名と旧仮名――私の場合」という特集に寄せた二十名のうち、文語派はたった二名、実に十七名がミックス派であり、文語の二名も混用は可、と書いています。口語使用を強く主張しているのは天野慶さん一人だけです。
ほとんどの歌人が、文語か口語いずれかに比重を置きつつ、ミックスして作っていると思われます。昨年の短歌研究評論賞(テーマ「現代短歌の口語化がもたらしたもの、その功罪」)応募の誌面掲載作中に、口語短歌の例として挙げられた歌を作る人たちの多くも、厳密に言えば口語率の高いミックス派です。ふだんの生活で使用しない文語を、歌を作るときにだけ使うのは、永田さんの指摘どおり口語だけでは作りにくいせいでしょう。「短歌の口語化」と言っても割合の問題であって、どの人も「安易」と中村さんには見えるでしょう。

そこで、「安易」でない歌人を中村さんに示そうと、本棚にある歌集から探した結果、斉藤斎藤、笹井宏之、やすたけまり、永井祐、枡野浩一、の第一歌集には文語は全く使われていないことがわかりました。早坂類さんにも今橋愛さんにも、一首以上は文語の混ざった作がありました。使わないことをかなり意識していなければ(もしくは使ったことがあるとしても歌集には入れないという意識がなければ)、文語を排除するのは難しいことがわかります。

私は、これら意識的に口語のみを使用している人のなかから、以下二人の歌集を中村さんに見せ、反論の一つとしたいと思います。「口語でなければ言えないもの」が、これらの歌集にはあるのではないでしょうか。「口語だと非常に軽くなって、日常些末に堕ちてしまう」「精神が弛緩しているようにみえる」という批評に耐えるものがこの二冊にはあると示し、どう思われるか聞いてみたいと思います。

それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした   笹井宏之『ひとさらい』
ねむらないただ一本の樹となってあなたのワンピースに実を落とす
わたくしの代わりに生きるわたしです右手に見えてまいりますのは     斉藤斎藤『渡辺のわたし』
セブンイレブンからのうれしいお知らせをポリエチレン製で無害の袋にもどす

もう一つ、本当に一首の中で口語と文語が混ざったらだめなのか、という点について、中村さんを説得できないか考えてみます。
愛読している歌集から、混ざっている秀歌を探してみました。いずれも永田さんと同じく文語に比重を置き、ごくたまに口語が入る人たちの作です。

さき死はたちまち黒き土に消えしゃがんだままに娘は泣きぬ    吉川宏志『燕麦』
はつふゆの朝陽がこころもとなくて髪のきれいな人を撫でたし    内山晶太『窓、その他』
海を視ることのできない海のためサングラス髪のうえに立てたり   大滝和子『竹とヴィーナス』

一首目は「しゃがんだままに」、二首目は「髪のきれいな」、三首目は「ことのできない」の部分に口語が入っています。それぞれを中村さんの指摘どおり統一するため、文語に改変してみせることはできますが、どうしてもしたくないと思いました。なぜしたくないのか。

これらの歌人には、音韻の効果を優先順位の最上に置いているところがあると思うのです。最終的に歌を読んで胸に残るもの、それは極端に言えば意味よりも調べや音の響きだということを知っている。

一首目でいえば「しゃがんだまま」という濁音の入った口語の響きと「に」の継続によって強調されるもの(「しゃがむ」は比較的新しい動詞なので語尾だけ文語表現に変え難く、代わりに「かがみたるまま」としてしまうとこの歌は全く別のものになってしまう。無理に「しゃがみたるまま」「しゃがめるままに」等としても、濁音のひっかかりが消え、しゃがみっぱなしでもう立つことのできない娘の姿の強い印象が弱まってしまう)、二首目でいえば「髪」と「人」の間の流れるような美しい髪そのもののような響き、三首目では濁音の入った口語の不能感の強さ(「できざる」とすると濁音の二乗によって効果は消えて汚さが残ってしまうし、「かなわぬ」にしてしまうとやはり口語の音による強さは消えてややロマンチックな響きが出る)などの効果を、それぞれの作者は全体の調べを作るとき意識的に採用していると思うのです。
これらの歌の響きは絶対に変えたくありません。意味が同じだとしても、中村さんの言い方を借りれば「感興」に違いが生まれます。

最後に、「ユリイカ」での中村さんの、永田さんの歌の口語が「恣意的」という指摘について触れておきます。
たまたま最近読んだ、村上春樹『若い読者のための短編小説案内』(文春文庫)のなかに、このような部分がありました。
吉行淳之介の短編「水の畔り」の中の或る文章について解説しているくだりです。

相当にごつごつとした不器用な、癖のある文章ですよね。(略)しかし逆に、考えようによっては、これをすらっと巧く書いちゃったら、あとに何も残らないような気がしないでもないんです。(略)そのままひっかかりなくすっと向こうに抜けていって、読者は何も感じないかもしれない。つまり下手だからこそ、ぎこちないからこそ、しっかり心にひっかかるところがあるのだと思います。

このあと村上さんは下手な文章とそれが芸になる文章との違いを述べているのですが、私はこれを読んで、先の中村さんの「恣意的」という批評を思い出しました。
恣意的というか、無意識から出てくる言葉の効果というものがあります。歌を多数つくっている時などに、「なんだこれ」と予想外の変な言葉が出てくることがありますよね。がちがちに作りこまず、そうした無意識から拾ってきた言葉を、ちょっと不自然であったとしても採用することがある。コントロールしきらない言葉の組み合わせによって、「心にひっかかる」ものが生まれる。そうしたことも、文語と口語をミックスさせて作ることと関係があるように思うのです。
上に挙げた吉川さんの『燕麦』を読んでいると、体の動き(しゃがむ・泣く・踏むなど)に関わる部分や、死に関わる歌に、口語の混入を少し見ることができました。身体に近い言葉をふと入れたくなる無意識の心の動き、ということも精査していけば言えるかもしれません。わざとごつごつと不器用にさせることが必要なこともあると思うのです。それは完全な制御からは生まれない、恣意的なものであるかもしれません。

村上春樹は先の本で、吉行淳之介の代表的短編ではなく、どちらかというとぎこちない箇所もある「水の畔り」をテキストに選んだ理由を、こう述べています。

僕があえてこの作品を選んだのは、ひとつには吉行淳之介という作家の文学的生理なり、小説的視点なりに近接し、それを理解するためには、かえってこういった「完成しきっていない」ものの方が有効なのではあるまいかと感じたからです。

韻文作家である歌人の文体は、歌集を出すにつれて完成に向かって進んでいくとも限りません。最初から完成した文体の第一歌集を携えて登場する歌人も多い。その後その人がどのように歌集を編んでいくか、長い坂をゆっくり上ったり、下り坂を辿ったり、紆余曲折します。一冊のなかでも、一首一首は成功したり失敗したりします。その失敗の理由は何か、成功の理由は何か、一冊ずつ、一首ずつ、丁寧に見ていくことによってその歌人のやろうとしていることを理解できる場合もあるでしょう。
ことに長く続けている歌人の場合、一人ひとりどのような意図で作っているかをよく分析していかないと、「安易」な場合とそうでない場合の見分けは非常に困難だ、ということは言えると思います。

一首の中で文語と口語の混在を基本的には避けることは、初心者以外はみなわかっているわけですが、それでもなぜ敢えてそうしたものを作ってしまうのか。私が考えたのはひとまずのところ、以上のようなことでした。
歌人の多くに向かって投げられた疑問に、あなたならどのように答えますか。

引用文献は下記サイトで購入できます。(書名をクリックすると、別窓が開きます。)

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