元気がもらえる歌集
11月にもなると、だんだん年間回顧モードになってくる。なんと言っても、今年は歌集が充実した1年だった。私のこの時評の担当は、今回を含めてあと2回なので、いいと思った歌集をできるだけ紹介していきたい。
今年の歌集を振り返るに当たって、様々な切り口があると思うが、今回は「元気がもらえる歌集」というタイトルにした。優れた歌集の発行が相次ぎ、各地で学生短歌会が盛り上がりを見せるなど、短歌界は実に活気に満ちた1年だったように見える。一方で、一旦、歌集や短歌雑誌から目を上げて、政治、経済、社会を眺め回してみると、なかなか先行きの見えない問題ばかりが山積みなのである。そんな中、人々の思いは、どうしても暗く、はかない方向に傾きがちなのではないだろうか。そんな今だからこそ、読んで元気がもらえる歌集というのは、とても大切だと思うのである。
一冊目は、なみの亜子歌集『バード・バード』(砂子屋書房)である。
野の山葵三ッ葉の浸しに飽きる頃にょんと伸びくるすかんぽがある
なんだってこんなに死んだり生きたり山林に踏みつけてゆく腐葉土の嵩
しとしとのぴっちゃんな女が雨漏りの下に書きゆく葉書のひとつ
糠みそよう混ぜといて、と電話していつもの面子と夜の更けまで
吉野の山中の暮らしを詠った、なみの亜子の第三歌集。定型から何かが溢れ出てくるような強い印象を受けた一冊だ。
溢れ出てくるのは、一つには、豊かな自然のエネルギーだろう。例えば、一首目は、うっかり人間に食べられてしまった「すかんぽ」を詠んでいるが、「にょん」というユーモアのある擬音で伸びてくる「すかんぽ」には、自然と人間との境界線を自然のほうから踏み越えてくるような勢いを感じる。二首目で詠われているのは、「死んだり生きたり」を繰り返す自然の圧倒的な存在感であり、足下の腐葉土には、その自然の営みが幾重にも凝縮されているのである。
三首目は、誰かに向けた葉書を書いている場面なのだが、「しとしとのぴっちゃんな女」というところが、水のしたたるような瑞々しさと同時に、どこかしおらしさを演出するようなユーモアを感じさせて楽しい。四首目は、家族に糠みその面倒を任せて、いつもの仲間と夜更けまで飲むという場面だろう。山中の暮らしと言っても、決して隠者のようなものではなく、堅苦しくならない、自然体の生き方が伝わってくる。こんな歌を読むと、歌から溢れ出てくる作者自身のエネルギーのようなものを感じたりもするのだ。
かなり破調の歌が多い歌集で、言葉自体も定型を溢れ出しているのだが、歌は独特のリズムや声調を保ちつつ、常にエネルギーで漲っている。読み終えるころには、読者の内側にも、歌から伝わったエネルギーが湧き上がってくることだろう。
二冊目は、小黒世茂歌集『やつとこどつこ』(ながらみ書房)である。
えびすさまに盛塩そなへ柏手をうつとき腕より鱗とびちる
スプレーのやうに演歌をまき散らし銀のトラック那智の浜越ゆ
しぽと降りしぽしぽと降りたちまちにしぽしぽしぽと湖国の時雨
長子の挙式をへて戻ればわが家はごくろうさんと薄目をひらく
小黒世茂の第四歌集『やつとこどつこ』は、作者の以前からのテーマである「日本の源流を探しもとめる旅」に加えて、「家」というもう一つのテーマが加わった歌集である。
まずは旅の歌から。一首目は、周防大島の鯛漁師を訪ねたときの歌。作者の祖父も、紀淡海峡の鯛漁師だったというから、「日本の源流」を探しつつ、自らのルーツを辿る旅でもあったのだろう。鯛漁師が柏手を打ったときに、腕から鱗がとびちる。それだけを言っている歌なのだが、漁師の気っ風のよさそうな威勢のいい姿が、動画のように目の前に立ち上がる。身体の動きは威勢がいいが、心はえびすへの祈りに向けられているという点も見逃せない。二首目は、別の旅の途中で出会った演歌をまき散らすトラック。いかにも元気のよさそうなトラック野郎の顔が目に浮かぶ。三首目は、湖国(滋賀県)の時雨を詠んだ歌。「しぽ」というオノマトペの繰り返しは、だんだん雨が強くなっていく様子を描いているが、雨が強まっていくまでの短いスパンの時間と、「湖国」という言葉が秘めた、数百年単位の時間が一首の中で重なりあうような歌である。
家の歌も見てみたい。四首目は、長男の挙式を終えて、家に帰ってきたときの歌。まるで絵本か漫画に描かれた家のように、薄目をひらいた「家」が、やさしくねぎらってくれている。
これらの歌は、古くから日本人が持っていた神への祈り、生命力、風土に蓄積された時間、そして家というものが持っている体温、といったものを思い起こさせてくれる。時間に追われる日々の暮らしの中では、忘れてしまいがちなものたちが、ひょいとやって来て、読者を励ましてくれるような歌集である。