短歌時評 第79回 田中濯

隠された身体

 図書館で『芸術新潮』(2012.11)を読んでいると、「帰ってきた股間若衆」(木下直之)という記事に出くわした。そもそもの前提を省いた文章であるうえに、軽妙な文体でもあり、また、掲載されている写真が奇妙なので、最初はいったい何が話題にされているのか判別できなかった。しかし、読み進めていくうちに、これは面白いぞ、これは大変なことかもしれない、と気分が高揚しだし、スマホでグーグル先生に尋ねてみると、どうやら『股間若衆』という本が今年の初夏に発売されており、一部で評判になっているようであった。さっそく、ジュンク堂盛岡店に電話して取り置きをしてもらい(はっきりいって、書名を説明するのは恥ずかしかった)、その日のうちに買って読んだ。素晴らしい出来栄えであった。

 さて、「股間若衆」とは何だろう。これはもちろん、木下の造語である。木下は著名な美術史研究者であり、東大の教授でもあるが、どうもオヤジギャグが大好きらしく、これは「古今和歌集」にかけているとのことである。木下研の学生さんたちは大変なのかもしれないし、そもそも短歌に関わるわれわれはもしかしたら、はっきり怒ったり、あるいはくっきり無視したほうがよいのかもしれない。しかし、私は本稿で結構大事なことを書きたいつもりであるので、もう少し御付き合い願いたい。

 ある時、木下は駅前に立つ男性裸像彫刻を見て強い疑問を感じたそうである。あの男性裸像彫刻の股間はいったいどういうことになっているのだろうか、あるのかないのかよくわからない曖昧模糊な造形ではないか、そして周囲のひとびとは何の注意も払わず通り過ぎていくではないか……と。大げさに言えば、これが学問誕生の瞬間である。そして木下は、明治初期からの「男性裸像」の表現の変遷を、彫刻や絵画・写真を中心に緻密に追いかけてゆくのである。その精粋が収められた『股間若衆』では、男性の裸体の描写、特に性器部分の描写が、いかに政府や世の中の常識のもとに禁止され抑圧されてきたか、を、圧倒的な資料を開陳しつつ述べる。端的にいえば、それら「股間若衆」の皆さんの姿は読者の爆笑を誘う。なにしろ、明治以来の芸術家が編み出した苦心の手法とは、どこからともなく登場した万有引力を超越する「葉っぱ」であったり、既に説明した通りの、性器の存在をぼやけたものにした「とろける股間」であったりするからだ。

 そういった抑圧は、敗戦で一気に消滅するか、に見えた。芸術に限らずどの分野でもあったことだが、戦前と戦後で言っていることややっていることがまるで違う御仁もいたようだ。しかし、伝統に厚みも幅もある「女性裸像」と比較すると、「男性裸像」の「解放」や「解放のロジック」は畸形的であった。木下は三島由紀夫や雑誌『薔薇族』を紹介しているが、そこに漂うのは残念ながら日陰の精神であって、健康的で戦後的であるとして駅前に立つものの「とろける股間」をもつ男性裸像と列挙してみると、その「分断」のされかたにはおおいに問題があるように思える。つまりは、「男性裸像」というものはいまだに不全な存在であり、おそらくは表現に大幅な展開の余地もあるのだろう、と考えられるものなのである。

 というわけで、ここでようやく本題に入る。無論、ここからは短歌の話となる。芸術で、「女性裸像」が「男性裸像」の遥か先を行ったのと同様なことは短歌でもおきた。いうまでもなく、与謝野晶子の登場である。

乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の(くれなゐ)ぞ濃き
みだれごこちまどひごこちぞ(しきり)なる百合ふむ神に(ちち)おほひあへず

与謝野晶子『みだれ髪』

 与謝野以降、短歌における女性の身体描写においては、特に「乳房」が圧倒的な存在感をもつようになった。それは自己愛の表出であったり、精神の自由さの表明であったりした。戦後においては、中城ふみ子や河野裕子の乳房の歌が有名だ。乳房の歌は、妊娠・出産ともリンクし、非常に豊饒な領域を構成するようになった。これらは、一方では「身体感覚」の表現として、抽象化もされている。身体を「樹木化」して捉えたり、「水・液体」として捉えたりと、様々なヴァリエーションがある。これらは主に女性による短歌によって表現され、その「感覚」が特異であればあるほど、より女性の独壇場になった。なぜなら、その特異性は乳房の歌に下支えされているためである。男性には、乳房の歌に相当する「土台」は見当たらない。

 なぜこのようなことになってしまったのか。ここでは先に、生まれるかもしれない誤解を解いておこう。男性にも、もちろん性愛の歌は存在する。多数存在すると言っていいだろう。しかし、それは行為そのものであったり、あるいは対象の女性の肉体の描写であることがほとんどで、男性自らが自身の肉体を、乳房の歌に相当するように歌うことはあまりない。そして、歌う場合でも、何故か、ネガティブなイメージが歌を覆う。貧相な肉体、衰えた器官、あるいは茂吉の「はげあたま」。ニュートラルに歌うこと自体が、かなり困難なテーマなのである。

 言ってしまえば、男性にとっての「与謝野晶子」はいまだ登場していないのである。現状の、男性による男性の身体描写はまだまだ「股間若衆」なのである。とろけているのだ。それは、男性自身が身体に興味がない、ということを指す。そして、おそらくはその傾向が、明確な「私性」の成立をも損なっているのである(このことについては、いずれ稿を改めて論じたい)。

最後に本邦では珍しい歌を挙げよう。

 満開の桜に圧され少しずつ少しずつペニスが膨らんでくる

永田和宏『風位』

これは「桜」と題される一連七首の中央に配された歌である。続く歌は

 関係が家族と言わば易からん桜の下にはばたける水

である。これらは情景の歌であるが、おぼろげに暗喩の気配もあり、名歌といえるだろう。特に、「ペニスが膨らんでくる」というある種ポジティブな表現は、ひとつの達成であると考える。

 「股間」の歌は、もちろん常に下品さと戦わなければならないだろう。短歌はポルノではないからだ。しかし、それは性愛の歌がそうであるべきなのと同様であり、初めから避けていて良しとするのではなんの進展もおこらない。「隠されているものを暴き出す」ということは、文藝の立派な機能のひとつでもある。乳房の歌に匹敵すべく、男性も自身の身体を表現していくべきである。

*本稿執筆にあたり、真中朋久氏よりの助言に感謝します。

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