短歌時評 第80回 牧野芝草

ひとはいつどこで短歌と出会うのか

2012年11月18日発行の「外大短歌」3号の随想で、藤松健介は

   むつきのはじめつかた、雨ふる日よませ給うける
のどかにもやがてなり行くけしき哉昨日の日かげけふの春雨

という玉葉和歌集の伏見院の一首を引いて

何の気なしに和歌を読み下した瞬間に生じる、その和歌とのファースト・コンタクトは、和歌からの読み手に対する不意打ちというかたちをとる。(中略)私がここで用いている和歌とのファースト・コンタクトという言葉は、ある和歌を読んで初めて心を動かされる瞬間の、その和歌と読み手との接触という意味の言葉である。つまり、和歌を読んで特に何の感動も覚えずに素通りする場合、そこにファースト・コンタクトは生じないし、また、知識として知っているだけではファースト・コンタクトにはならない。

と述べている(註1)。

この文章では藤松はあくまでも「一首の和歌」との出会いに限定しているが、同じようなことは、特定の一首との出会いを入り口とした短歌全体との出会いについても言えるのではないかと筆者は感じた。

そして、それは、前回(11月9日掲載分)に書いた「短歌のパイをいかに増やすか」にも関わってくる。

例えば、中高生が必ず触れる本として国語の教科書がある。聖徳学園岐阜教育大学の貞光威の1996年の論文によれば、当時、斎藤茂吉の歌は25種の教科書に101回掲載されていた(以下、教科書の種類を「種」、掲載回数を「回」で示す;調査対象は高校の「国語I」「国語II」の教科書)(註2)。茂吉に続くのは石川啄木25種67回、与謝野晶子25種66回で、この三人が1978年以降不動のトップスリーだが、1996年の調査では、寺山修司15種35回、俵万智5種13回、岡井隆5種9回、佐佐木幸綱4種4回、など、1986年の調査には含まれなかった新しい顔ぶれが採用されていることが貞光の調査からわかる。

また、「短歌研究」の2002年8月号に「国語教科書に掲載のすべての近・現代短歌 <小・中・高>平成14年度」として同様の調査結果が掲載されている(註3)。この記事によれば、荻原裕幸、吉川宏志、穂村弘、加藤治郎など、貞光の1996年の論文では教科書に掲載されていなかった比較的若い世代(2002年当時30〜40代)の歌人の歌も(1種1回ずつとはいえ)掲載されるようになってきている。

一方、同じ「短歌研究」2002年8月号で、河野裕子は

いい歌なのかどうかが問題なのではない。教科書に載っている歌の力は圧倒的なものであって、有無をいわさず生徒の心身のなかに入ってくるのである。生徒の側の受容の仕方は様々であろうけれど、いったんインプリンティングされてしまうと一生わすれられないものとなる。それだけに、どの歌を教科書に載せるかは大切な問題である。
 教師の側は、短歌や俳句を解釈して教えようとしがちであるが、自分が心底ほれ込んで、いいなあ、いいなあと教壇で言い、教科書以外の歌をプリントして生徒に読ませるだけでいいのだ。教室のなかの二人か三人が反応すれば、その授業は成功したといえるだろう。
 現行の教科書に載っている歌を見ていると、現代短歌に比重を置きすぎであると思う。近代短歌をもっと大事に扱わなければならない。古いものは現代の生徒には分からないという先入観があり過ぎるのではないか。(河野裕子「短歌研究」2002年8月号、p.39)

と述べている。

現代短歌に比重を置きすぎかどうかという点については、近代も現代も等しく重視されるべきであるという意味で筆者は疑問符をつけるところではあるが、「教室の中の二人か三人」(というより学年の1%弱)が反応したとすれば、特定の年齢を構成する100〜120万人(註4)のうち1万人程度が「短歌」というジャンルを認知したことになる。それだけの数のひとたちが「歌を読む側」になれば、「短歌のパイを広げる」という意味では十分すぎるくらいだろう。

「短歌研究」の前述の特集では、ほかに

短歌の世界に、若い人が入ってくるために、教科書の短歌が大きな力をもつとは考へません。(中略)小学生には小学生の作つた歌で、中学生には中学生の歌がいいと思つてゐます。無名の人の歌でよいのです。高校生には、俵万智氏以降の口語調の歌。無名の人でもいいでせう。(岡井隆、同、p.30)

もしも自分が教科書で短歌に出会わなかったら、どうだったのだろう。もちろん想像でしかないのだが、或いは短歌をつくっていなかったかもしれない。いくつかの短歌体験のゲートをくぐって実作に至ったように思う。(中略)自分にわかる範囲のことを言えば、教科書においても、短歌の親しみやすさのアピールは必要だろう。ただ、それが小説や漫画やドラマの「ように」親しみやすいということではまずいと思う。(中略)親しみやすさのなかに、歌は散文とは「違う」のだということが示されるのが大切だと思う。(穂村弘、同、p.43-4)

長く愛誦されてきた名歌に、強制的に出会わせるという意味では、教科書はとても有意義だろう。(中略)私自身は、しのごの言っているより、一首でも、生徒が心に残る短歌と出会ってくれさえすれば、それが何よりだろうと考え、教科書には載っていない現代短歌を、わんさとプリントして配っていた。そして、どの歌が好きかを、生徒たちに尋ねる(そうすると、真剣に読んでくれるので)。
 現在の資料を見ると、かなり新しい短歌までが網羅されているようだが、それでも数でいえば少数派だろう。短歌が、今を生きる私たちの、ビビッドな表現方法として機能しているということを、まず生徒たちに伝えることが、大事なのではないだろうか。(俵万智、同、p.45)

現在の中学生にも、いろいろな感性を持つ生徒がいるはずである。古い言葉遣いが好きな子もいれば、新しい口語短歌に魅力を感じる子もいるだろう。大切なのは、さまざまな時代のさまざまな傾向の歌を、なるべく多く載せることである。(吉川宏志、同、p.46-7)

など、様々な意見が掲載されている。

岡井隆と穂村弘の意見が正反対なのは、短歌に触れる機会が教科書以外にあったかどうかの差であるように思える。教科書以外の場で短歌に触れる機会があるひとが多いのであれば、岡井の言うように「教科書の短歌が大きな力をもつとは考へ」なくてもよいだろう。しかし、実際には、短歌に触れている人が少ない以上、特に中高生世代が教科書/学校教育以外の場で短歌に出会えるのはごく稀である。

もちろん、「短歌人口の増加(読者の増加)に対する教科書に掲載された短歌の影響」については、同じく定型短詩である俳句や川柳の状況と比較するなど、きちんとした検証を経なければ何も言えない。しかし、「短歌のパイを広げる」ことを考えるならば、膨大な数の一定の年代(しかも若い世代の)のひとたちに対して、強制的に情報を届け得る場である教科書(ひいては教師、教育)の影響力を無視したり軽視したりすることはあまりにももったいないことであると筆者は考える(先の特集のなかで、教科書の短歌が印象に残っているという趣旨の文を寄せているのは穂村弘だけではない)。

くり返しになるが、筆者が想定しているのは「文芸にも読書にも興味のない層に対して教科書を通じて短歌というジャンルをアピールすること」や、「学年の1〜2割が短歌を詠む側になること」ではない。文芸や読書に親しみのある層(簡単に言えば「国語が得意な層」や「図書館に入り浸る層」、長じてのち「本が必ず鞄に入っている層」となるだろう生徒たち)に対して、短歌というジャンルとの出会いを促すこと、彼らの読書の選択肢に歌集というジャンルが(SFやミステリなどと同じレベルで)含まれるように促すこと、である(そのなかから才能のある人物が「歌を詠む側」として現れてくれることを期待してはいるが、割合としては「歌を読む側」のさらに0.1-0.5%程度が「歌を詠む側」になることをイメージしている)。

1996年当時16歳の高校生は1980年生まれであり、永井祐や石川美南の世代に一致する。同様に、2002年に16歳だったひとは1986年生まれで、吉田竜宇、田口綾子らの世代と重なる。あくまでも筆者の仮説に過ぎないが、学生短歌会や若い世代を中心とする同人誌が活発に活動していることや、1980年以降に生まれた世代(現在、30代前半より若い層)が新人賞その他の場面で活躍していることの遠因として、教科書に採用された歌の変化があるのではないか。

そもそも読書人口自体が減少しているという問題や、現代の教育現場が抱えている(であろう)様々な問題をまったく無視した楽観的な論である自覚は十分にある。また、「短歌人口の増加(読者の増加)に対する教科書に掲載された短歌の影響」について、俳句や川柳の状況と比較するなど、さらに検証する必要はある。「中学校や高校の教員という職業を選択する歌人が少なくない」という、短歌のジャンルとしての強みが、これまで以上に意識的に発揮されることを期待して本稿を終える。

   *

註1. 「随想」(藤松健介、「外大短歌」、第三号、p.30-7、2012年11月18日発行)

註2. 「高等学校教科書「国語I」・「国語II」における近・現代短歌教材」(貞光威、聖徳学園岐阜教育大学紀要 32, 335-375, 1996-09-30)

註3 特集「教科書だけでは学べない短歌」(「短歌研究」、2002年8月号、p.27-67)

註4. 総務省統計局 年齢各歳別人口(平成22年度)

※資料の収集にあたって、光森裕樹氏に協力いただきました。感謝申し上げます。

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