「ガルマン歌会」というお祭り ~半“なかの人”の立場から 山崎聡子

昨年11月、「ガルマン歌会100回記念歌会」に運営委員の一人として参加した。

その様子をレポートする前に、まずは「ガルマン歌会」とはどんなものかを説明しておきたい。「ガルマン歌会」とは、2003年ごろ、早稲田短歌会出身の谷川由里子、堂園昌彦、五島諭らが中心となってはじめた歌会で、「卒業したら歌会をする機会がなくなるから」という自然発生的な動機から生まれたものと聞いている。当時、早稲田短歌メンバーの多くは結社などに入っていなかったため、卒業後も短歌を発表し合える場として、当初は2週に1回、現在では月1回の歌会が定着したのである。

合言葉は「歌会はたのしい それがマナー」。はじめのうちは参加者のほとんどが早稲田短歌関係者だったが、そのうち結社に属している人・していない人、歌歴、年齢などバックグラウンドの異なる人々が入り乱れて参加するようになり、これまでにのべ100名以上が参加してきた。

さて、この歌会の特徴は、そのルールにある。通常の互選形式の歌会と異なるのは、この歌会では「トップ票」が大きな意味をなすということである。ガルマン歌会では、毎回トップ票を獲得した人に「ガルマン」という称号(意味不詳。「いちばん偉い人」というようなニュアンス?)が与えられ、その「ガルマン」が次回歌会の司会をつとめる。つまり、もともとある意味でのゲーム性に富んだ歌会であり、トップ票の獲得をめぐって微妙な駆け引きが交わされることも少なくない。この「ゲーム性」、さまざまなバックグラウンドの人たちが短歌というつながりのみで集まってくる「フラットさ」がこの歌会のおおきな特徴といえるだろう。

運営委員の予想をはるかに超える60名以上(!)の参加者が集まった100回記念歌会であるが、その顔ぶれは、極めてガルマンらしい、多彩なものとなった。穂村弘、東直子、佐藤弓生といった歌人から、各結社の若手たち、近年の短歌新人賞受賞者、学生短歌会の現役会員・OB/OG、インターネットを経由して短歌を書いてきた人たち、詩・俳句など他ジャンルの書き手、はたまた「歌会自体への参加がはじめて」という人たち……。ガルマン歌会を評した文章のなかで、「他の歌会とは評価軸が異なる」という評価を目にしたことがあるが、はっきり言って、これだけばらけた集団のなかで、「秀歌性」と呼ばれるような一方向の評価軸を共有することは難しい。そして、それがガルマン歌会の評しにくさにもつながっているし、同時に従来の短歌観に縛られない、新たな批評が発生する磁場にもなりうるのだと個人的には考えている。

歌会は、7、8名の小グループに分かれて一次歌会が行われた後、各グループのトップ票取得者が決勝歌会に進み、そこでの議論と聴衆による投票によって優勝者(ガルマン・オブ・ガルマン)を決定する、という流れで進行した。決勝戦では会場の中心に設置されたテーブルにファイナリスト7名が座り、その周りをオーディエンスが取り囲んだ。まるで格闘技でも見ているような雰囲気だ。

決勝に進んだのは、まひる野所属の小島一記、早稲田短歌会出身で同人誌『町』(現在は解散)の平岡直子、服部真里子、早稲田短歌会から吉田恭大、山階基、外大短歌から黒井いづみ、“短詩系女子ユニット”gucaに所属し、電子書籍の出版なども行っている太田ユリ、という顔ぶれ。参考までに、予選通過を勝ち取った短歌を、本人の許諾をとって転載する。

質のよき革製品をあまた抱き新幹線は甘く匂える  小島一記
管つけて眠る祖母から汽水湖の水が流れて一族しじみ 吉田恭大
誰からの温度も気持ちいいように冷たい指に生まれついたの 黒井いづみ
風葬のなかにわたしが終わらない犬の寿命をはるかに越えて 平岡直子
煌々と明るいこともまた駅のひとつの美質として冬の雨 服部真里子
おなじこと二度はできない 恋人を脱いだ浮き輪が打ち上げられる 太田ユリ
かあさんと違うかたちに変えられて金魚かあさんを知らずひしめく 山階基

 角川『短歌』1月号「歌壇時評」で、佐藤弓生は、吉田の優勝歌<今後とも乗ることはないだろうけどしばらくは視界にある飛行船>と永井祐の歌<わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる>を例にあげ、現在の短歌の美意識のあり方として、「カッコつけて見えないよう能動的に注意が払われている」ことを指摘している。しかし、ことこれらの予選通過歌に関して言えば、必ずしもその指摘は当てはまらないのではないかとおもう。決勝には文語・旧かなでつくる人間こそいなかったものの(予選段階にはそういった歌もあった)、服部の歌などは佐藤がいうところの「詩を探ろうという美意識」に溢れた一首であるし、小島の歌も「日常における発見」という短歌的解釈によって容易に読み解ける、渋い一首である。一方で、オーディエンスも交えたディスカッションのなかでは、「迎えにいく読み」という言葉がキーワードとなっていたように、上記の平岡や山階の歌のような飛躍を含んだ、読者にゆだねる部分が大きい短歌は、あるいは従来の短歌的なテキストでは「わからない」とされてしまう歌かもしれない。しかし、聴衆も交えたディスカッションでは、それら各々の個性は前提として、歌の読みを探る議論がなされたことが非常に印象深かった。(決勝の短歌をすべて引用できないため、個々の歌のディスカッションの詳細をお伝えできないのが残念である)

 「わからない」「戦っていない」――最近、短歌雑誌などで目にすることのおおい表現だが、この表現で切り捨てることほど思考停止しているものはない、と悲しくおもう。なぜわからないのか? なぜあの人のスタンスは自分と違うのか? そういったことを考えながら、歌の読みを探っていく。自分とあの人が異なることを前提としたうえで議論を深めていく。こういった態度は歌会のあり方としてとてもフェアであると思うし、そのフェアな雰囲気がガルマン歌会100回記念歌会にはあったと感じている。私はこの歌会の懐の深さを、ほとんど愛している。

作者紹介

  • 山崎聡子

1982年生まれ。同人誌pool所属。

※ガルマン歌会へ参加希望の方は,件名に「ガルマン歌会お知らせメール希望」とお書きのうえ、

galman_hotel☆yahoo.c​o.jp(☆はアットマークにかえてください)までご連絡ください

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